『カラマーゾフの兄弟』ドストエフスキー

途中中断が数時間あったもののこの日で米川正夫訳『カラマーゾフの兄弟』を読了。
もう何回読んだかわからんけど、何度読んでも読むたびにこれだけ揺さぶられる小説は他にない。
ギラギラした高校生の時に読んでも、くたびれかけた30過ぎになっても、ストーリーをまるっきり覚えていても同じように迫ってくる怒濤の勢いは凄すぎる。
読めば読むほど好きになる本というのは本当に珍しいと思う。
この長大な小説をを最低50回は精読したという某シュタインはさすがにやりすぎやと俺は思う。でもそれくらいは読みたいかも。


amazon ASIN-4002010961でも一方で、いくら「普遍」である(と俺は言い切る)小説だと言っても、やっぱり古くさいと感じる部分はあるかもと今更ながらに思った。
アリョーシャやゾシマ長老が素晴らしい人間やというのは倫理的な側面から誰が読んでも大体一致するとこやろうけど、
イワンが何を本気でうじうじ悩んでいるのか、ドミートリーが何でそんなにハイになったのか、ってところは「無宗教であるのが正しい」とか「宗教は怪しい」「宗教に行く人は弱い」とかいう事になってる現代的な感覚からはわかりにくいやろうなぁと思うし、
カラ兄で最も有名で深いとされる「大審問官の章」でも、現代から言えば「神は死んだ」どころか「最初から中の神などいない」という前提になってんねんから、「人間は自由の刑に処せられている」とか言う以前に問い自体がおかしいことになる。
こういった信仰とか宗教とか無神論とか自由とか赦しとか言ったテーマでは今の読者は絶対掴めんやろう。
個人的にはそういったことはとても大事で切実な問題やとは思うけど、それでも現代の感覚から言えばそういったことを問題にする人はごくごく限られるわけで、言い方を変えれば完全にずれているとも言えると思う。
今までカラ兄といえば「大審問官の章」てな感じの読み方ばかりされて、そういう読み方が王道のような言い方をされてたけど、もっと現代に即した他の読み方も模索した方が良いのではないかと思った。
「大審問官の章」に凝縮して語れるほどカラ兄は小さくないし、一通りの詠み方しかできないほど懐が狭い事はないと確信している。
「大審問官の章」的な所は「ふーん」てな感じで読んでおいても、ゾシマ長老とかアリョーシャとかコーリャとその仲間たち、スネギリョフ二等大尉とその家族をメインに読んでも十分偉大な話やと思うし、出てくるキャラもみんなキャラ立ちすぎるくらいにぶっ飛んでる。
凶女と卑屈男を書かせたら世界一のドストエフスキーが描く「ホフラコーヴァ夫人」と「スメルジャコフ」の破壊的なまでの戦闘力の高さだけでなく、完全な脇役陣でありながら一騎当千のグリゴーリイ、リーザ、マクシーモフ、ラキーチン、フェラポント神父、ヘルツェンシトゥーベ先生などの繰り出す弾幕は余りにも厚すぎる。
涙無しには読めない場面あり、もう呆れて笑うしか無い場面あり、気色悪くてぞくぞくするしかない場面あり、キスシーンすら出てこない健全さにもかかわらず、まともな奴は誰一人として出てこない、バカがバカを呼びキティーがキティーを呼ぶ至高の茶番劇『カラマーゾフの兄弟』おまけに「大審問官の章」もついてくるよ。
さぁ読んでない人は読んでみよう!
「それなんてヴィンチコード?」とか言ってる場合じゃないよ!
という読み方はダメ??
アリョーシャが最後に「イリューシャの石」のとこで「ここでこういう尊い感情を持った瞬間があったことを一生記憶しましょう」てな事をいったけど、俺も少年たちの一人に混ざってしかと記憶したし、最後の「カラマーゾフ万歳!」は俺も一緒に唱和した。
小説は純粋に疑似体験しておけばそれで上等。直接的になんか引き出してやろうとか、何かを学んでやろうと思うのは、そりゃぁスケベ心やと思った。疑似体験から学べればそれで最上。
なんで今までこういう詠み方をしてなかったんやろうとちょっとだけ思った。

3件のコメント

  • どうやら256さんを違う人と勘違いしていたようで失礼いたしました。
    私は256さんを存じ上げておりますでしょうか?それとも通りすがりの方でしょうか?
    いずれにせよコメントありがとうございました。m(__)m

  • やっとコメントいただきありがとうございます。
    なんか文章違うような気もしますが、大体誰か分るような気もします。
    確かに「至高体験」をもたらしてくれる小説が至高の小説か?と言えばそんなことは無いですやね。
    数年後とかにじわじわ効いてくるのもあるし。
    実はなぜかトルストイの長編は読んだことが無いので、『戦争と平和』は一度読んでみます。
    『ゾーイ』と『怒りの葡萄』もまた読み返してみたくなりました。

  • 自分の中に全くの空白の部分があって、小説がそれを一から十まで埋めてくれるのを期待するのは無理な話だけど、自分の中で考えてる部分や思うところがあれば、小説がそれを広げてくれることがあります。
    しかもそういうのを期待せずに読んでて、いきなりぱっと目が右にも左にも向こうにも開けると言うか。そういうのは至高体験で、めったにあることではなく、僕には「ゾーイー」と「怒りの葡萄」と「戦争と平和」だけです。
    でもそれを期待して小説を読むのはお門違いかなと。小説は常にそこにあって、それを至高の小説にするのが自分の変化で。
    解放区より色んな自虐と愛を込めて。

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