逃避的代償的プラシーボ旗印

最近昼ご飯をオニギリだけにしているのでお腹の具合が非常によろしく、変に平坦な気分が持続している。
肉を食べないと攻撃的な気分になる事のが少なくなると言う迷信は本当かもしれないと思い、プラシーボな自己暗示を二重にかける。
仕事帰りに閉店ギリギリに行きつけの自転車に飛び込み、タイヤを買い込む。
夕食後、明らかにサイズが合っていなかったマウンテンのタイヤチューブを2本交換し、パンクしないのが不思議なほどひび割れていたロードのチューブラを1本貼り替え、メーターのリモートスイッチの不具合を直した後、ご近所に西瓜と真桑瓜を配達する。


新しいマスク、スノーケル、フィン、リアディレイラー、ブレーキアーチ、最近やたらと物欲がムラムラ沸き上がってる。
新しいPHS、時計、デジカメって言い出したらキリがない。
明らかに逃避的で代償的な物欲やけど、そういう類の欲求は世の中の成り立ちとかあり方から見れば、あまりに空虚で意味がないと思いつつも、こんな世界やねんからせめてそれくらいの楽しみがなければ。とも思う。
言い換えれば、本質的な事ではないと思いつつ手を出すのなら問題ないという事になるんやろうけど、本質的でないとわかっている事にわざわざ手を出すのはそもそも如何なものか?と思わなくもない。
人間が弱いもんやというのは当然の事であるにしても、人に対してはともかくとして、自分の弱さとか醜さを最初から計算に入れて指針とか旗印にするのはいかがなものかと思う。

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