女子力とフェミニズムとシモーヌ・ド・ボーヴォワール
先日「女子力」って単語を使ったのでちょっと「女子力」について考えてみた。
最近良く聞く「女子力」なる言葉を耳にするたびに感じてきた違和感は、「女子力」なるものが果たして「女子」にとって「力」となるのだろうかということである。
つまり「女子力」を語れば語るほどフェミニズム的文脈で言えば女子としての地位を自ら貶めていることになるのではないか?という疑問がふと浮かんだのである。
フェミニズムと「女子力」ってのは同時に両立し得ない概念であるような気がしつつも、それでもなぜか不思議とその二つは親和性が高いようにも思える。
以前『ボーヴォワールは語る―『第二の性』その後』を読んでいて、彼女の言葉で家父長制度や結婚制度などを含む社会システムへの言及として
ブルジョアの存在が否定されるべきものだとしても、ブルジョアの生み出した文化は否定されるものではない
とような意味の事が書いてあった。
シモーヌ・ド・ボーヴォワール自身は美人やお洒落さんやし才能にも溢れてたということで、恐らく当時のフランス人女性からすれば「女子力」の高い方の人間だっただろう。
フェミニズム的文脈で言えば、古来から「力」は「男」に属し独占されるものだった。そして「力」とは攻撃のために使うものであった。
そして「女子力」そのものは男性から見た魅力に端を発しているのは間違いないにしても、往々にして男性は「女子力」について余り良くわからないし、現実の「女子力」は男の存在を度外視した上で女性同士で測定され観測され競われ判定されるものである。
そして「女子力」が高いからといってそれを行使して男性を次から次に陥落させてゆくのは本当の意味で「女子力」が高いとは言えないと判定される。
女子力とは行使されるための力ではなく力そのものの存在のレベルが問題にされる。つまり「女子力」とは「攻撃力」ではなく「抑止力」として働く力であるのだ。
「女子力」とは攻撃力である「男子力」とはまた別の、抑止力として働く平和の維持のために行使される力といえるかもしれない。
新谷かおるの名作『エリア88』で
何もせずに得られた平和は、何もせずに奪われる平和だ
という名言があるが、
その「女子力」が守るのはフェミニズム的闘争で勝ち取られた平等なのかもしれない。
って、無理やり書いてみたけど、「オッサンやけど女子力について考えたよ~♪」ということでお許しいただきたい。