同情するなら…
2006年12月23日
某ニーチェさんの描く某ツァラトストラさんの言うところによれば、神は人間への同情のために死んだと言う事になっているらしい。
それの指すところの意味なり是非なりは兎も角として、少なくとも「同情は神をも殺す破壊力を持つと考えられる」と捉える事も可能であるに違いない。
往々にして、最後の手段として「同情」に訴えかけようとする輩は多いし、自らの「同情」が主な動機として端を発した行為が上手くいったためしなど殆どないように思われる。
同情がより低いレベルに自分と対象の人間を留まらせておこうとする感情の動きとして働く限り、同情からは何も生まれないだろう。
同情としての反応が得られる閾値はどんどん上がり、同情と言う燃料を補給するために状況はますます酷くなる。と穿った見方をすれば、同情の行き着く先はあまり好ましいものではない場合が多いやね。
とはいっても「同情」の感覚は何とも甘美なものである。
火に飛び込んで自らを提供する兎でも、「この人の血について私には責任がない」と手を洗うローマ総督でもないスタンスで、他人や自分の「同情すべき状態」に向き合うのは中々難しいものである。