カオスに良いも悪いもあったもんじゃない

風呂に入ってベートーヴェンの交響曲第五番を聴きながらバタイユを読んでいると、風呂のまったりした心地良さ、バタイユのド変態っぷり、ベートーヴェンの深刻さ、全てを同時に味わうのが余りにちぐはぐなような気がして、混乱するかと思えばそうでもなく、全体として高みから見下ろしてみれば意外にしっくり来ていて、まぁ世の中こんなもんやろうと。
自分の中にある動機の部分と感覚の部分の有無と是非を論理で補足しようとしても殆どが否定的な結論に終わってしまう事が多いのは、自分の中の動機や感覚が実は偽物だったり否定されるべきものではなく、論理でそういったモノを補足しようとする試み自体に問題がある。
自分の中に感じられる時点でそれは「有る」のであり、自分自身の存在を「是非」で評価するのが不毛であるとの同じ理由で、自分の中の感情や感覚を「是非」で評価するのは、「ハイイロガンの刷り込み現象」を量子力学で説明しようとするくらいの不毛さがあるように思う。
特定の感情や感覚が否定的なものだとされるのは、社会性の立場からの話であるけど、幸か不幸か我々は社会から離れる事は難しい。
善悪や是非は大抵社会性のレベルで言われる事が多いけど、そこと自分をどう折り合いをつけるのかが一番の問題のような気がする。

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