エロスのオムレツ/欲望アトミック/山上の木
快気祝いである「饗宴」でオムレツを作りまくり、卵10個を一時に消費する。それでもまだ足りなかった。
この日は形重視ではなく味重視で少々崩れても気にせず「ハムチーズオムレツ」とか「出汁巻き風オムレツ」とか直球勝負である。
オムレツを作る自体が楽しく、また作られたオムレツを食べる人も喜ぶ。このように作る側も作られる側も、あるいは提供する側もされる側も、またあるいは相対する人間のどちらもが幸せになる事、つまりは関係する全ての人間が幸せになる事こそ愛の神エロスのイデアに適う事である。
ゆえにこのオムレツは食べた人の全てをして、「オムレツのイデア」なる至高の高みを目指したものと思わせしむる、「エロスのオムレツ」といえよう。
などと古代ギリシャの詩人アガトンの祝賀会の演説大会のように語ってみる。
世の中には理解は出来ないけど、その存在を認めざるを得ないものが多くある。自我が欲求によって形を取るとしても、私の全く理解し得ない欲求を持つ自我が、私に理解できないかと言えばそうではないだろう。
少なくとも理解しようと試みる事はできるし、闇を覗き込んで闇から覗かれず、ミイラを取りに行ってミイラにならず、ニーチェを学んでニーチェにならずに戻る事は可能であろう。
対象を理解する事と対象の存在を認める事が別で、対象を理解する事と対象を理解しようとする事も別であるとするのは、人間の不完全さと醜さを前提とした見方によるだろう。
ある種の反応は一度開始してしまうと何者にも止める事は出来ない。
余りに大きなカタストロフの前でちょっとした臨界突破は余りにも目立たないけど、それでも個人的な臨界突破は臨界突破に違いない。
充満していた「場の可能性」の中で、周りにあった反応抑制因子が減って最初の反応が起こってしまうと、もはや反応抑制因子は役に立たなくなり、外部からの制御を一切受け付けず、あたりに放射能を撒き散らしながら一方向に反応が進んでゆくだろう。その反応はその反応のエネルギーを上回るエネルギーでしか止められない。幸いまだ最初の反応は起こっていない。と思いたい。きっとそうだろう。
「高く明るい上の方へ、伸びて行けば行くほど、その根はますます力強く、地の中へ、下の方へ、暗黒のなかへ、深みの中へ、-悪のなかへとのびてゆく。」
というニーチェさんの言葉はある種の呪いであると思った。なにしろ、彼からすれば余りに高く伸びた木は雷に打たれて破滅する事しか望まなくなるわけやし。
などと思った、星の綺麗な夜だった。