烏賊牡蠣オムレツ祭り

「筋肉さんお帰りやす年忘れオムレツ祭り」ということでオムレツを作りまくり黒糖梅酒を飲みまくる。
スルメイカ二匹を解体。胴をはずして目を取る時に「アンダルシアの犬」とか言っていのだが誰も気づかなかったのがちと悲しかった。
「イカそうめん」を作っているつもりがだんだん作業が雑になり、気づけば「イカうどん」「イカきしめん」になっていたのもちと悲しかった。
「塩辛く無い塩辛」は名が体を表わしていないにもかかわらず、そのものを指している。言語って不思議である。
酢牡蠣、牡蠣フライ、牡蠣ホイル焼き、まで作ったものの、牡蠣フライを所望されて予定の牡蠣雑炊は牡蠣フライへと変更。
雑炊予定のご飯は筋肉さんが現地から持ち込んだ「ナシゴレンの素」で「似非ナシゴレン」に。
結局、卵15個ほどを消費してひたすらオムレツを作りまくったが、自宅のフライパンに慣れきっている自分を発見した。


確かに時間は過ぎて、我々はそれぞれ日常的に交差しようの無い遠いところに立っている。気づけば我々皆が色々なものに隔てられたところに運ばれている。
しかし一方で、我々皆はある特定の時間から全く変わっていないようにも感じる。実は本当はなにも起こってなんかいないのではないか?とすら思う。
ある面から見れば人間は「移り変わり」である。「今日の私は昨日の私を否定する」とまでも言わなくても、人間は日々変わり続けている。
しかしその特定の個人がその個人で無くなるわけでは無い。
土偶は日々変わり続けながらも土偶である事は永遠に変わりが無いのである。
私は日々変わり続けながらも存在としての私は不変である。ゆえに私をその属性たる言葉で説明する事は不可能であるし、そこに人間存在の根本的な分裂の根があるような気がする。
そんな事はともかく、「縁」とはつくづく不思議なものだ。と思った病み上がりの夜であった。

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