青木やよひ著『 ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究 決定版』 / 新しいベートーヴェン像(私にとっては) / フェミニズム視点からの〈不滅の恋人〉の探究

amazon ASIN-4582765998年末年始の長期貸し出しということで借りてきた中の一冊、青木やよひ著『 ベートーヴェン〈不滅の恋人〉の探究 決定版』を読んだ。
ベートーヴェンの死後に秘密の引き出しから発見された有名なラブレターの宛先である〈不滅の恋人〉が誰であるのかは、昔から研究の対象になってきた。
タイトルの通りこの本は〈不滅の恋人〉に対する今までの研究の歴史的な概略を示し、現在ではほぼ定説となっている著者が世界で始めて提示した〈不滅の恋人〉をアントニーア・ブレンターノとする説の根拠を、実際に現地に赴いて調べた証拠と共に示すものである。
2001年に同じ著者によって講談社現代新書として『ベートーヴェン<不滅の恋人>の謎を解く』 が出版されたが、そのすぐあとに著者の説を裏付ける新事実が発見され、この本はその講談社現代新書に書かれた内容に、新しく発見された資料を論考の対象に加えた形で加筆したもので、2007年に平凡社ライブラリーとして刊行されている。


著者の「青木やよひ」という人は現在でこそベートーヴェン研究の本を沢山出版しているけど、1970年代からフェミニズムの分野で、上野千鶴子と喧嘩したりする勢いで活躍してきた人らしい。
このフェミニズムな視点で「〈不滅の恋人〉研究」を見ることで、裕福なイタリア出身の豪商に嫁ぎ子供を沢山生んだアントニー・ブレンターノはモラルある幸福過ぎるほど幸福な人であるから、あえてベートーヴェンと不倫の恋に落ちる必然性が無かったということでずっと〈不滅の恋人〉候補から除外されて来た定説を、実は彼女はイタリアンファミリーなしがらみと夫との関係で決して幸福ではなく、モラルがあるからこそベートーヴェンとのプラトニックな恋を公に出来ず結局夫の下に帰った。という見方によって覆すことが出来たのだろう。
著者がずっと携わってきたフェミニズムの視点が、全く別ジャンルであるベートーヴェン研究に革命的な新風を吹き込んだ事実に心躍ったり励まされたりである。
この本の中で、日本ではロマン・ロランの『ベートーヴェンの生涯』の影響が余りに大きくこの本の中でのベートーヴェン像が定着していると述べていたけど、確かに私自身もその本を読んで、音楽だけに全生涯を捧げ、恋愛も生活も余りに不器用で、余りに個性が強すぎて周りに嫌われて孤独のうちに死んだベートーヴェン像を抱いていた。
しかし、この本で描かれるベートーヴェンは彼に心酔する人だけでなく友人も多く、孤独ながらもちゃんと社会生活を営んでいたようであるし、何よりも彼の個性の際立った点はその高い倫理観にあったといえるだろう。
そしてベートーヴェンが苦悩に真正面から向き合い、責任を果たしつつ避けることなく、自らの欲求ではなく「道徳」を規範として選ぶ様はなんとも心を打つ。
この本は<不滅の恋人>アントニーア・ブレンターノとベートーヴェンの関係をただのパパラッチ的な視点で描くのではなく、そんな倫理規範の高いベートーヴェンがアントニーアとの成就されなかった恋愛を如何に乗り越えて彼女と新たな関係を結び、そのことが彼の芸術にどのような影響を及ぼしたのかという視点を貫いていたのがとても良かった。
ベートーヴェンの最後の3つのピアノソナタがブレンターノ家の思い出に深く結びついていることは有名らしいけど、あのグレン・グールドでさえ限りなく美しいと称えたNo30のop109がアントニーアの娘であるマクシミリアーネ・ブレンターノに、当初アントニーアに献呈されるはずだったけど結局献呈なしで出版されたNo31のop110を挟んで、私が大好きなNo32のop111のロンドン版だけがアントニーアに献呈されている。
このソナタが完成する十年位前のアントニーアと恋愛真っ盛りの時期に、ベートーヴェンは彼女とイギリスに移住することを本気で考えていたらしいけど、最後のピアノソナタのイギリス版だけが彼女に献呈されていることは「私としてはそこに深い含意を感じないではいられない」と言う著者の意見に私も同意である。
そう思って聴くとまたこの最後の三つのピアノソナタも違ったように聞こえるのであった。
例えば恋愛、家庭のなんやかんや、病気やトラブル、その他もろもろの苦しみや喜びは、言ってしまえば限りなく個人的なものでしかない。
そんなことは当事者にとっては一大事でも、他人にとってはありふれたどうでも良い出来事のひとつに過ぎないし、社会や世界から見ればほぼゼロに等しい出来事である。
しかし、それでも人間であれば避けることの出来ないそんな苦悩や喜びを乗り越えた先に、こんな素晴らしいものが生まれたり、こんな境地にたどり着くのであれば、限りなく個人的で個別的なものが普遍の一端を担う可能性があるのなら、人間であることも捨てたものではないと思わせるなにものかを、ベートーヴェンはやっぱり持っていると言う思いを強くした。

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