『ひきこもりの家族関係』 / 斎藤環のマジメさが逆にわかった

amazon ASIN-4062720558ひきこもり本として斎藤環のものばかり読んでいたので、ちょっとほかの人の本も読まねば、ということでそこそこ評価の高いようである田中千穂子『ひきこもりの家族関係』を読んだ。
この人はセラピスト的心理療法家ということで、立場的には斎藤環に近く、精神科医ではない。この本の趣旨として「ひきこもりという状態像の実態を解明する、あるいは概説をする、とうことでも、対処のための攻略本でもない」と言い切って、ひきこもり問題を人間存在の原点にかかわる深刻な問題で、現代の家族関係のコミュニケーションのズレの象徴として、関係性の再生とそのための問題定義と捉えて話を展開している。
著者が女性であるせいか、この本の具体例として登場するのは彼女のクライアントである女性のひきこもりの話がほとんどである。
しかし実際にはひきこもり現象はほとんど八割が男性の場合だといわれており、たしかにひきこもり女性はひきこもり男性とはだいぶ印象が違うように思えた。
しかしこれら女性の事例ばかりを集めたのは、特殊な事例としてのひきこもり女性についての話としてならば納得できるが、ひきこもりとしては特殊な事例ばかりを扱ったということになってしまい、ひきこもり一般としての資料的価値と意義はあまり無いように思うのだがどうなのだろう?


ひきこもっている間を「意味ある時間」にする必要があるということがこの本の中で繰り返し述べられるが、それはどちらかというと「人生に無駄な時間はない」的な人生訓に近いようにも思える。
娘がひきこもったことによって、母親が自分の母親との関係も見直すきっかけになり、ひきこもりが個々の家族の生き方そのものをめぐる問題定義であったという話があったり、虐待やアルコール依存の世代間伝達の問題とひきこもり問題の関係に言及されたりと色々と面白い話題はあった。
それらは話としては面白かったけど、特にひきこもりと関連して述べる必要はないように思えた。非行でもアディクションでも大抵の思春期問題に当てはまるような気がする。
そして、ひきこもりの人に特有の何でも全てを言語化しようとする特徴を捉えて「言葉になる前のフィーリングを察する心をもう一度取り戻すのが大事ではないでしょうか?」という風に結論付けている。
じゃぁ一体どうすればいいねん?と言いたくなるし、ありがちな精神論的文化論な結論をオチにするのはいかがなものか。結局タブーであるはずの「犯人探し」の論理に堕ちているんじゃないかと。
なんとなく本全体の印象として、ひきこもりの話に引き付けて自論と正論を展開しているだけのような印象を抱いた。単なる読み物として考えればそれなりに面白いかもしれない。
本の最初に「ひきこもりという状態像の実態を解明する、あるいは概説をする、とうことでも、対処のための攻略本でもない」と断っているのが巧妙といえば巧妙で、これを単なる家族論やらコミュニケーション論として出版するのではなく、「ひきこもり本」としてひきこもり利権にたかる形で出版するのはいただけない。
ひきこもりの側に立って書いているように見えながら、実はひきこもり当事者が嫌うタイプの本なのではないだろうか。
そう考えると斎藤環はひきこもりの立場に立ったクールでかつ臨床的な立場で、実際に役に立たせようとして本を書いているのやなぁと思った。
彼の言う「ひきこもりシステム」がトンデモだという話もあるがそれはもう彼のマジメさとかを考えれば、誤差の範囲で良いんじゃね?と思った。



コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。

PAGE TOP