梨木 香歩 『西の魔女が死んだ』/ 女の子的冒険物語 / ターシャ・テューダー解釈 / ひきこもりへの分かれ道 / 反『シンセミア』的物語
梨木 香歩 『西の魔女が死んだ』を読んだ。
ネットであろうが周りであろうが、どこを見てもこの本を褒める人ばかりでこれをけなすのは人の道に外れるような空気が漂っている。これは「千と千尋の神隠し」の時の空気と似ているような気がする。
一応この本は出版当初は「児童文学」だったはずである。それが売れに売れて映画化までされて一般文学のような扱いになっているということであろう。
確かに本の中に出てくる人物や設定やストーリーや単語はわかりやすくはっきりしており、確かに子供に向けて書かれたのだという印象を受ける。
この 『西の魔女が死んだ』が児童文学としてすばらしいのはよくわかる。しかし、子供の文学は子供が読んで感じたり考えるべきものであって、子供を差し置いて大人中心にうだうだいうものではないはずである。
子供がこの本を読む前に、この本を一般的な文学として読んだ私のようなおっさんの書いた、ひねくれにひねくれた感想を読んでしまえばどうなるだろう。
子供がある本を読む前に大人によって変な先入観を植え付けられるのは、その本がよい本であればあるだけよくないことであるだろう。この本で素晴らしいとされることが受け付けられないと感じる個性もあってしかるべきである。
本来児童文学であったものを大人向きの文学として扱うことは、私のようなひねくれた人間に変な読み方をされる恐れが十分にある。
以下でこの 『西の魔女が死んだ』を最高の悪意でもってひねくれにひねくれた感想を述べればどうなるかの実例を示してみたいと思う。
この物語は構造的にはフォースとジェダイの騎士の使命やロトの血統と勇者の使命に目覚めるルーク・スカイウォーカーやローレシア王子の物語と同じである。
魔女の血を受け継ぐ「まい」は「西の魔女」から愛と修行を授けられて魔女になり、「世界」をサバイバルする術を学ぶのである。
この『西の魔女が死んだ』は『スター・ウォーズ』や『ドラゴン・クエスト』的な冒険物語を、女の子的語彙と文法で女の子的文脈に置き換えた冒険物語と言えるのかも知れない。
『スター・ウォーズ』や『ドラゴン・クエスト』は選ばれた血筋の勇者が真の力に目覚め、修行と冒険と仲間たちとの友情によってその力を高め、諸悪の根源である皇帝パルパティーンやゾーマといった敵を討ち、世界平和と名声を手に入れる、あらゆる意味で男の子的な過食系物語であった。
同様にこのまいの物語は女の子としての戦いを戦い抜き、魔女の力に目覚め、女の子が手に入れるべきものを手に入れる、女の子的冒険物語なのである。
そして、この物語は実際に大なり小なりこのおばあちゃん的な存在がいた人が読んで感動する本なのだと思った。
しかし、確かに面白く感動する物語ではあるけど、そこまで騒ぐほどのものかという印象はぬぐえない。
自然に暮らすおばあちゃんと、「俗」を拒否する少女、そして魔女と森と野苺とジャムとハーブといった小道具立てだけで売れていると口の悪い人はいうけど、世の中そんな小細工だけで通用するほど甘くない。この物語にこの女の子的語彙と文法と道具立てを超えてがっちり読者の心をつかむなにものかがあるのだろう。それが何か、ただのおっさんである私にはいまいちよくわからない。
かの有名なターシャ・テューダーという絵本作家がいるが、「まい」のおばあちゃんの「西の魔女」はこのターシャ・テューダーとリンクする要素がとても多いように思う。
恐らく私が思うに、そしてこの物語に激しく感動するかそうでないかは、ターシャ・テューダー的なものを傍観者として見るものだとして認識するか、実際に自分が行うものとして認識するかの違いではないかと思われる。
言い換えれば、ターシャ・テューダーのような生き方をただ自然に溶け込んだ美しい理想的なものとだけ見て単純に感動するか、逆に自分の現実に即して考えてしまい、それが美しく理想的である反面、とてつもなく贅沢で頑な誤解を招く生き方で、その生活を選んで維持するために払われるであろう努力と苦労を見てしまい、自分の個性を貫くただそれだけことが如何に苦難の道のりかということに思いを馳せるかの差ではないだろうか。
最近私の中で熱いひきこもり問題と関連付けて見れば、突然学校に行けなくなった少女の心の揺れは、ひきこもり状態に入る直接的なきっかけでもある。嫌な言い方をすれば適応障害の一歩手前の状態であるといえるだろう。
この「西の魔女」のいう「なんでも自分で決めること」は、斎藤環の脱ひきこもりの指標として「自分の人生を自分の責任によって引き受ける決意」的なものと本質的には同じであるだろう。
このことを「西の魔女」は魔女云々という言い方で言って「まい」がそれを受け入れたということになり、この主人公の「まい」の適応障害への危機は「西の魔女」たる宗教的グルの存在とその指導によって回避されているといえる。
一般的な通常の社会に日常生活をおくっているだけで多大に受けてしまうストレスに対する回避方法を、「西の魔女」たるカリスマによって授けられる、「魔女」なる架空(であるといわざるを得ない)の前提を基にした考え方や捉え方などの精神論的な方向性のみで、しかも一ヶ月という短期間のうちに体得させてしまうのはある種のマインドコントロールといってもおかしくなく、とても危険であるといわざるを得ないだろう。グルの存在の消失によって再び適応障害に陥ることも大いにありうるように思う。
この本は極言してしまえば、ある一人の少女のひきこもり化や不登校化回避と何かしらの成長の過程の物語といえる。
彼女にとって「西の魔女」的存在が周りにいたという時点でとても幸運であったといえる。
しかし、たいていの適応危機におかれている子供たちの周りにはこういった「西の魔女」的存在はいない。魔女や魔法使いの血を引かないごく普通の凡庸な彼らは単身でその危機と直面せざるを得ないのである。
私が興味を惹かれるのは、こういった「西の魔女」的存在なしに、完全な孤独の中でどう社会や世界と折り合いをつけるのかということである。孤独な戦いをいかに戦うかというところにある。
私は主人公「まい」や「西の魔女」よりも邪悪で不潔で醜悪の象徴である「ゲンジさん」に肩入れして読んでしまった。たとえばこのような肯定的な要素が皆無である「ゲンジさん」はいかにして救われるべきか。という問題がある。
「まい」のように利発さと個性を持った子供らしい子供はあふれるばかりの未来と救いがあるが、この「ゲンジさん」のような醜悪でしかない存在の未来と救いのなさの方にこそ興味を感じるのだ。
「まい」のような少女も世間に揉まれて挫折と失望を繰り返すとゲンジさんのようになる可能性がある。その可能性と過程にこそ興味を覚える。そしてゲンジさんのようなおっさんのような存在にまでなってもなお、そこに救いと未来が存在するのかという事こそが問題である。
このゲンジさんも昔は「まい」のような少年だったと考えると、とたんにこの物語の根底がガラガラ崩れるような気がする。
人間は如何にして醜悪になるか、いかに醜悪であるか。というところを書く作家といえば阿部和重だろうか。この「ゲンジさん」は限りなく阿部和重の小説の主人公にふさわしい。
彼の傑作である『シンセミア』的にこの『西の魔女が死んだ』を解釈してみるとこうなる。
森に囲まれて朗らかに育った少年は町に出て結婚に失敗して一族の土地に舞い戻ってきた。もうすでに中年になっていた男は金に物を言わせて土地を買い漁ったイギリス人の余所者とその孫が森を我が物顔で歩き回るのを見て嫌な気分になる。男は自分の不甲斐なさと劣等感で屈折し、先祖からの土地で幸せそうに暮らす余所者二人に嫉妬と憎しみと羨望の入り混じった複雑な感情を抱く。
まるで昔の自分を見るかのような少女が自分を生理的に拒否することに、少女に対しての憎しみだけでなく自分自身への絶望までもが日々高まってくるのに苛立ちを感じる。イギリス人の余所者が「西の魔女」と呼ばれているらしい事を知り、わけもなくその苛立ちは頂点に達して、腹いせに鶏を犬に襲わせてしまう。
少女と「西の魔女」にそのことを感づかれたゲンジはしばらくおとなしくしていたが、やがて「西の魔女」の孫が都会に戻り「西の魔女」は一人になった。
この土地の誰もが貧乏にあえぎ、食うに困った上で受け入れた森の都市開発をこの「西の魔女」は感情論とモラルのみではねつけた事でこの土地の住民の「西の魔女」一族への憎悪が一気に高まった。どうやら「西の魔女」はその孫にも土地を与えているらしい。魔女一族はゆくゆくはこの土地一体を我が物として支配するつもりに違いない。
そしてこの土地への「西の魔女」と魔女一族の侵略を食い止めるために、この土地の最も古い一族が立ち上がった。その先頭に立つのは一族の使命に目覚めたゲンジである。興っては滅び、浮かんでは消えた様々な一族の血が深く染み付いたこの土地を守るために、最も古き血統の一族による現代の魔女狩りが密かに開始される。
やがてゲンジは衰えて力の鈍った魔女に、体の自由が失われた状態で長時間苦しみ続けて死に至る一族に伝わる毒草を飲ませることに成功した。「象徴的火あぶりに」なった魔女の死はどう見ても自然死にしか見えないだろう。
「西の魔女」の死を切欠に再びこの土地を侵略すべく舞い戻った「東の魔女」は大きく成長していた。彼女の力は並々ならぬものがあり、ゲンジにはゆくゆくは「西の魔女」をしのぐ魔女になるだろうと思われた。
「東の魔女」が本当の力に目覚める前に審問官たるゲンジは「東の魔女」を懐柔すべく罠にかけた。
魔女一族に正義の鉄槌を下し、魔女一族を正義の炎に投げ込むための第一歩である。
「東の魔女」率いる魔女一族を時間をかけて根絶やしにするための、この土地の最古の一族による本当の魔女狩りはここから始まるのであった。
といった『東西の魔女を滅ぼす』ともいうべき物語である。どうだろう?
『西の魔女が死んだ』をゲンジさん側からまったく裏返してみるとこうなる。つまり、『西の魔女が死んだ』はとても反シンセミア的なのである。
と、児童文学をおっさんが読むと、こんな妄想になるのであった。
この本の素晴らしさを認めた上でのただの言いがかりなので、ファンの方も気にしないでください…
いやしかし、いつの間にかこれだけ長い感想になってしまったということは、やっぱりそれだけのものがあるのやなぁ…
ぶっちゃけこの本は自己完結しているようにしか見えなかったのですが、なーるほどそういわれるとそんな気がします。小説好きの私も人にはこの本よりもほかの本をお勧めしたいです。
一番新しい記事というと酒井保 『自閉症の子どもたち 心は本当に閉ざされているのか』でしょうか。キノコ先生が書きたいと思ってた事が「教育者は治療者でもある」だとしたら、キノコゼミの学生は幸せですねぇ。
でもまぁそんな事おっしゃらずにぜひとも二冊のレビューを書いてください。とっても読みたいです。
ぼくもこの本読んだけど、ある程度考える力のある人には(子どもであっても)、刺激とか深み(解釈の余地)を与えないタイプの本だと思った。個研においてあるけど、ただの一人の学生にも勧めていない。ただし、ときどき「おっ!」と思う、自分であれば使わないであろう言葉を著者が使っていて、何カ所か線を引いた記憶がある。
それより、いちばん新しい記事で、ぼくが書きたいと思っていたことを書かれてしまった気がするので、二冊のレビューはやめておきます。^^
殆どこの本に対する言いがかりに近いような私の感想にちゃんとご意見くださいましてありがとうございますです。
ひきこもりや不登校も独力の努力だけで克服するのは難しく、第三者の介入が必要だというのは、どうやら定説となりつつあるようで、いずれにしろ「西の魔女」的存在は必要なようです。
確かに児童文学に限らず、小説は「疑似体験」がとても大きな要素だと思いますし、たった一人で苦しむ子供にとってはその「疑似体験」がとても救いになるのは理解できます。
私の感想にはその視点が抜けていました。
私がこの本を読んだ時に「まい」よりも「ゲンジさん」を疑似体験してしまったという事が大きかったのだと思います。
とても興味深く拝読しました。
私が読んだ時はまいにどっぷり肩入れして読んでいたので、ゲンジさん側からこの小説を読んでいらしゃるのが大変面白く、納得しました。
確かに土偶さんの仰っている通り、「児童文学」としてこの小説を扱う限り、大人がワイワイと過大評価をすることは子どもの読者に先入観を抱かせてしまいますね。私も卒論で「児童文学の価値は大人ではなく子ども自身が判断すべきだ」という内容を書いたのに、流行に流されてしまったことを反省しました。
そして実際にひきこもりや不登校で悩む人にすべからくこの小説でいう「魔女」が存在するわけもなく、自力で脱していく激しい努力の前には甘すぎる内容であることにも気づかされました。
とても勉強になりました。
今回の記事を拝読していて気がついたことのひとつに、「児童文学」の大きな要素のひとつである「疑似体験」があります。実際その子に「魔女」はいなくても、読むことで疑似的に魔女との会話を体験するということも考えられないでしょうか…。
そうした点に気づかせて頂いたことでも、今回の土偶さんのお話は大変興味深いものでした。指摘されたポイントに注意しながら私ももう一度読み返してみます。
いつも土偶さんのお話から様々な指針を頂いております。
これからも更新をとても楽しみに、お待ちしております。