高橋竹山『津軽三味線ひとり旅』 / 終わらない上向/究極のアナログ
読みかけて忘れていた、高橋竹山の『津軽三味線ひとり旅』をやっとこさ全部読んだ。
昔からこの高橋竹山の三味線は好きで良く聴いていたのだが、こんな自伝的な本まであるのを知ったのは最近である。
その高橋竹山なる人は2歳にならないうちに麻疹から視力を失い、16歳で独り立ちして門付けで日々の生活をおくっていたのが、60才も半ばで行った渋谷にある小劇場での若者相手のライブをきっかけに一気にメージャとなり、その後世界7都市で演奏会を開く一種のカリスマのようになった。
この本は彼が渋谷でのライブはじめた位の頃の1975年に、彼に惚れ込んでいた佐藤貞樹なる人がそれまで彼からで聞き取っていた話を形にして、ある程度時系列順に並べて自伝的な色合いにまとめたものである。
元々彼は多少音楽や楽器が好きだったものの、盲人となって生きる手段としての門付けのために三味線を弾くしかなかったような言い方をしている。
彼の歩んだ道は芸の道であるが、好きで積極的に入ったというよりは、消極的に「これしかなかった」という、いわば消去法的に選択せざるを得なかったものであるというのが面白い。
毎日毎日、一日の宿にありついて一日を生き伸びる事だけを考え続けて何十年も過ごし、気づいたらここに来ていたと言うのは実に壮絶であり驚きでしかない。
一つのことを延々と続けて、自分で納得せず、終わりを設定しない、果てしない自らを高めようとする志向に圧倒されるようであった。なんというか究極のアナログである。
昔から彼の津軽三味線を聴いていてどこと無く静かな怒りのようなものに満ちているように思えたのだが、この本を読んで彼のその「怒り」のようなものの源泉がなんとなくわかったように思う。それが独特の土臭さと結びついて独特のエネルギーを持って聴こえてくるのだ。
彼はあとがきで「この本は私の三味線を好んで聞いてくれる人に楽しんでもらえれば嬉しい」と言うようなことを言っていたけど、この本を読んだ後に彼の三味線を聴くとまた別の聞こえ方がするのであった。
最近、知っている人が三味線な芸事の世界に入ったのだが、はたから見ていて比喩的にだけでなく実質的にも命をかけているように見える。
とにかく安直に安易に無難に世の中を生き抜く戦略が最善のものとして検討されている世の中で、彼女の選択した生き様には敬意を払わざるを得ないのであった。