スティーブン・レベンクロン『CUTTING リストカットする少女たち』『自傷する少女』/治療と教育と修行と悟りと苦悩についてのエトセトラ

amazon ASIN-4087604799amazon ASIN-408760361Xスティーブン・レベンクロンの『CUTTING リストカットする少女たち』と『自傷する少女』を読んだ。
著者のスティーブン・レベンクロンは摂食障害や自傷の患者を扱う心理療法家、或いはセラピストであるが、拒食症の少女を描いた『鏡の中の少女』を小説の形で世に発表し、それが世界的ベストセラーとなった。
現在、彼の本は摂食障害の少女について書いた小説が二つ、自傷についての小説とノンフィクションが一つずつ日本語へ翻訳されて出ているようである。
今回読んだ『CUTTING リストカットする少女たち』はタイトルどおり著者が実際に治療した自傷行為を行う患者のケースをいくつか紹介したノンフィクションで、『自傷する少女』は自らを傷つけることでしか心の平静を得られなくなったスケート少女が描かれた小説となっている。
最近でこそリストカットや自傷はメジャーになっているが、依然として自殺未遂や狂言自殺とは言わないまでも、ただ常人には理解できない病的なものとしてして見られることが多く、なぜそんなことをするのか、結局は何がしたいのかというところまで考えようとされない事が多いように思う。
余りにもメジャー化しているので、行為自体がある程度当たり前のようになって、それ自体について考えようという発想すらないのかもしれない。
私も同様にリストカットをしたことのある人を何人か知っていながらも、自傷行為自体に関してはやはり良くわからなかった。というか深く考えたり知ろうとしたことが無かったといった方がいいかもしれない。
しかし最近、雨宮処凛の本を読んでいて、自傷行為をすると落ち着くというのがどうしても腑に落ちず、また、夏にコーヒー屋さんでごく普通の幸せな人生を送っていそうな可愛らしくてお洒落なスイーツ女子にしか見えない女の子の肘の内側に縦にも横にも大量の傷跡があったのを見てかなりの衝撃を受け、自傷行為そのものにとても興味がわいてきた。
普段の生活を営んでいる分には目にすることは少ないけど、ネットで「リスカ」とか「アムカ」と検索してみるともうそこには想像を絶する世界が口を開いている。
世にはリストカット系ブログなるものがメンヘラ系ブログのサブジャンルの一つとして存在しているのだ。
私たちの知らないコアで深い闇へと続く暗い入り口が大きく開いているのを知らされるような思いがするのだ。
そしてそれは人間存在の闇と深さと不可思議さでもあるのだ。


とりあえず、リストカットと言えばこの人ということで、まだブログが無かった時代のWEB日記を書籍化したものである、カリスマリストカッターとも呼ばれる南条あやの『卒業式まで死にません』 を読みかけた。
しかし、どう読んでも彼女がどこにでもいそうな普通の女の子にしか見えない。読めば読むほど、なぜ彼女が腕を切るのか分からない。そもそも彼女が自傷行為を楽しく魅力的なものとして扱っているのが説明するまでも無く当たり前のものとして書かれており、まずその時点で理解できない。
解決されないままに読めば読むほど膨らんでくる根本的な謎とあまりに普通の女の子っぷりのギャップに混乱するばかりである。
結局、自分が余りにも自傷行為自体について余りにも知らなさ過ぎるのを痛感して途中で本を読むのを止めた。
そして、この『CUTTING リストカットする少女たち』と『自傷する少女』の二冊の本にたどり着いたというわけである。
ノンフィクションとして沢山の症例が紹介されている『CUTTING リストカットする少女たち』を読むことで自傷行為一般がどういったものでどういった原因や環境や心理で起こりうるのかがなんとなく理解できた。
そして、小説である『自傷する少女』で架空の人物であれ特定の個人についての体験や心の動きを追体験することで、知識だけではない感情的で共感的な理解も更に増したように思う。
恐らく、自傷行為をしたことのない人の殆どは、リストカットやアームカットなる現象をはたから見るだけでは、ちょっとした友達やブログの読者としてその人と接するだけでは、その内部で何が起こって何を求めているのかを想像したり理解する事は出来ないのではないだろうか?
症例を読んで知識としてその病理を理解して、小説でその状態を追体験することで初めてなんとなくその心の動きを理解することが出来たように思う。
簡単にかつ大雑把に言葉にして表してみれば、不安やパニックを抑えるための鎮静剤としての自傷行為、感情の表出を抑えるための代替行為としての自傷行為、という事になるだろうか。
そして、依存的な行為が往々にしてそうであるように、その対象がだんだんと効かなくなり質や量が回数を重ねるにつれ増大して収拾がつかなくなってゆき、ついには生命の危険すら脅かされるという道をたどるわけである。
一般的に健康といわれる人にとっては解消されるのに自傷行為である必要が無く、そもそも代替行為の必要性が無い心の動きが原因になっているように見える。自傷行為自体は理解できないように思えても、その原因自体は誰にでも理解できるものであろう。
そして、そこのところに自傷行為に限らず精神的な疾患一般に対する理解と共感の取っ掛かりがあるように思う。
更に言えば、人間そのものに対しての理解と共感の取っ掛かりもそこにあるように思う。
この著者が単純にノンフィクションでなく小説というメディアを選んだのは、単にノンフィクションで知識として理解するよりも、追体験としての小説を読むことで感情的な理解をするほうが意義があると思っていることなのだろうと思う。
小説内にも自傷行為を「心のしくみ」と理解して対処して治療に失敗するセラピストが出てくるくらいである。
そして他人に対する理解というのは、その人についての心理的であったり精神的であったりする「しくみ」を理解する事ではなく、「しくみ」として動く根本の動因である感情的な動きこそを、主観で共感として理解する事なのだろう。
結局そういった自傷行為に対する心理療法による治療というのは、何かしらの反応や対処として一般化してしまった特殊な回路を、普通の人が特に意識せずにやっているような一般的な心や意識のコントロールや回路に切り替えてゆくということになるのだろう。
そもそも自傷したくなるような精神状態に自らを追い詰めることの無いような生活や考え方が出来るように、また、パニック時に自傷行為以外の方法を選ぶことが出来るように、それらの方法や生き方を本人自身が見つけるのを手伝うという所が治療といえるような気がする。
手術や投薬で一気に解決する問題ではなく、時間をかけて長期間で一進一退しながら徐々に治ってゆくもののようである。
そしてそれを一人で行うのはとても難しく、そのナビゲーターや師匠のような立場であるセラピストが必要になってくるというわけである。
洗脳的に押し付けるのではなく、自ら見つけるのを手助けするというところはどこか限りなく教育に似ているように思う。
そしてそういった自傷行為に確固とした「治癒」された状態があるわけでない。ただ自傷行為が無い状態を目指し、ゆくゆくは自傷行為をしたくならないようになればいいと目指すだけである。いうなれば一生の日常や生活そのものが「治療」の一環ともいえるだろう。
これは確固とした状態をさすわけではない「悟り」の状態にむかって、日々日常や生活そのものを「修行」として生きるのにとても似ている様に思う。
精神的な疾患が癒えてゆくというのがある意味で教育や修行であるのならば、逆に教育や修行はなにかしらの自己療養の一環であるのかもしれない。
『リストカットする少女たち』 の中に

薬物依存や摂食障害の自助グループのなかには、誤ったアイデンティティを作り上げることでメンバーを支えているのも少なくありません。
そういったグループでは、障害を克服したいのに、その障害だけで自分が存在しているように思い込むようになります。「私はアルコール依存者です」あるいは「私は薬物依存者です」といったメッセージの事です。まるで手に負えない振り子のようです。障害となっている自己破壊的な行動を克服することはとても重要なことですが、いつの日かそれが過去になるということも強調しておきたい。彼女たちの力になるためには、もっと全体的なアイデンティティでその人を評価する必要があります。自分を傷つけている人、という側面だけをみていてはなりません。障害をもっていても、障害がその人のアイデンティティではないのです。

という一節があった。
たしかに、ネットの自傷系サイトやブログを見ていると、明らかにリスカやアムカそのものがその人のアイデンティティーとなっているだけでなく、それらをを媒介にして人々が結びついているように見える。
私自身にとっても、自傷行為や薬物依存や摂食障害は無いにしても、自分の弱さや弱点あるいは苦悩そのものをアイデンティティとしてしまう傾向はとてもよく理解できる。
つまり、自分の中で渦巻く弱さや葛藤や苦悩に日々苛まれ続けていると、弱さや葛藤や苦悩そのものが自分そのものであるように思えてくるのだ。
冷静に考えれば、弱さや葛藤や苦悩はその人そのものではなく、その人の一属性に過ぎないのは当たり前の話なのだが、その中でもがいている本人にはそれがとても見えにくい。
そしてそこから抜け出るには、その事を指摘し、その事を理解して共感し、さらにその苦悩から得たものを指摘して肯定してくれる人が必要なのだと思う。
そして、同様にこういった苦悩から治癒に向かって歩き出す様も、修行や治療や教育にとても似ているようにも思う。
今まで何人か自傷行為をしていることを私に対して語ってくれた人がいた。
当時はそのことについて知識が全く無く、理解できないので理解しようとせず、その事に触れることなくそれとは全く関係ない部分でその人と接していた。
今までそういった風にしかその人たちと接する事が出来なかったのを、ずっと悔やんでいた。
しかし、今になって思えば、中途半端に知識があればその人のことをリストカットする人として見れなかったかもしれない。
逆にそのリストカットとは全く関わりの無いところでその人と接していた事は決して悪い事じゃなく、むしろどちらかといえばいい接し方であったと思えるようになった。
リストカットではない部分でその人をその人とみなしていたのは結果的にその人にとって良かったのかもしれないと思えるようになって、私自身も救われたように思える。
結局のところ、リストカットせずにおられようがおられまいが、餃子ドッグを食べずにいられようがいられまいが、秋に冷たい用水路でガサガサせずにおられようがおられまいが、アゴが「むにゅっ」となろうがなるまいが、人生が修行であり学びでありそして治癒への道である事は誰にとってもかわりは無いように思うのであった。
と、無理やりまとめる土偶であった…

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