南条あや『卒業式まで死にません』/「人を知る」ということについて
南条あや『卒業式まで死にません』を読んだ。
この「南条あや」なる人物はリストカット系ネットアイドルだとかカリスマリストカッターだとか呼ばれて一時期とても話題になった人である。
高校生である彼女はタイトルにもなっている「卒業式まで死にません」を口癖のように使っていたが、卒業式が終わってしばらくして、一人で入ったカラオケボックスで薬をオーバードーズして死んでしまった。
この本は彼女が高校生時代、まだブログなんか無かった頃に、WEBページ上で日記として公開されていたものを再編集したものである。
先日、自傷について全く何も知らない状態でこの本を読み始めて、彼女が何を言っているのか、どういう発想で腕を切りたくなるのかがかさっぱり分からずに途中まで読んでわけが分らずに放り出していた。
しかし、スティーブン・レベンクロンの小説とノンフィクションを読んで自傷についてなんとなく理解できたのでもう一度この本を最初から読み直してみた。
自傷について全く理解できなかった状態ではなく、ある程度知った状態で読むと、全く印象が違うどころか、明るくテンションの高い文章の間から強烈な叫びが聞こえてくるようであった。
助けを呼ぶのではなく、耐え切れなかったり諦めたり達観できない自分を笑い飛ばしたり罵倒するような叫びは読んでいてなんとも居たたまれない。
無闇に明るい文体が逆にコントラストとなって彼女の心の闇を強調されるように感じられた。
多くの思春期に起こる問題がそうであるように、彼女の場合も家庭の問題に端を発し、もてあますほどに増幅してゆく自意識と相まって、色々な所に影響していたと言って良いと思う。
いわゆる「非行」と言われるような行為ではなく、大量の薬を飲み、自傷行為にふけり、ひたすら自分だけで完結しようとする方向性を選んでしまう所がなんとも痛ましい。
本のキャッチコピーのように本の紹介文で使われている「過激にポップなモノローグ」というのは本当に上手くこの本を言い表しているように思う。
本の中に決定的な父親とのゴタゴタで彼女が自殺を企てて止められて失敗してしまう時の様子が書いてあるのだが、彼女の父親本人が本の文中に書いてある私の台詞は事実と違う。と注釈を入れていたのにとても驚いた。
恐らく、彼女に対してもずっとそう言い続けていたのだろう。彼女からすれば自分の捉えている事実を全否定されると言うことは自分自身を否定されたように感じるだろう。
なんというか、彼女の父親の悪意は無いはずの行いが予期せず彼女をどんどん追い詰めていった様がありありと想像されてとてもゾッとした。
何か起こってしまったことをどう捉えるかという問題については、事実がどうであったということは殆ど大した意味を持たず、一番辛い目にあった当事者がその事をどう捉えているのかを知ることが一番大事だ。ということが良くわかる例であると思う。
結局人は世界が本当はどのような姿をしているかということよりも、自分にはどのように見えるかということのほうを問題にするのだ。
そして思春期であればそれはなおさらであろう。
先日読んだスティーブン・レベンクロンの『鏡の中の孤独』で拒食症から回復しつつある主人公の女の子が、過食症をこじらせて死んだの友人に何の手助けも出来なかったことを悔やんでいる時に、彼女の小さい時からのホームドクターが「ときには、自分には助ける資格がないと考えないとね。」と彼女に言っていたシーンがあったのが印象に残っている。
娘自身が父親に求めていたものを与えられた感触を持っていなかったことは確かだとしても、父親が娘に何かをしたわけではないし、父親は精一杯生きながら娘に善意しか持っていなかったのも疑いようの無い事実であろう。
彼女の死は事故ではなく自殺であった。
「南条あやファンクラブ」が出来るほどのネット上の人々に愛され、多くは無いがとても仲の良い友人と、結婚を約束していた人までいたにもかかわらず彼女は自ら命を絶って死んでしまった。
彼女を深く愛する人がこれだけいたにもかかわらず誰も彼女の自殺を止める事は出来なかった。
考えてみれば、家族と言えども人の苦しみを癒したり、死のうとするのを止める事ができると考える事自体が傲慢なのかもしれない。
我々が身近な人に対して出来るのは、自らの苦しみを癒したり自死の欲求と戦おうとする事に対する「手助け」や「応援」くらいなのかもしれない。
以前から「リストカットと言えば南条あや」と思える程度には「南条あや」なる人物も知っていたし、話題になっていた時に彼女のサイトである「南条あやの保護室」もなんどか見たことがあったが、特に興味を持つこともなかった。しかしながらなぜか今になってその書籍化されたものを読んだということになる。
存在するのを知りつつも全く興味がわかず、近頃興味が沸いてきて読んだものの全く理解できず理解を放棄してしまったが、ある程度の予備知識を持った上で読むとこれだけ印象が違って理解できるように感じられることにかなり驚いた。
恐らくこの本は自傷について全く分らない人が読んでも全く理解できないけど、南条あやと同じような傾向を持つ人にはわが事のように痛いほど理解できる本なのであろう。
今まで何かの特定の状況に陥っている特定の対象に対して、その対象そのものにのみ接し続ける事が、その特定の状況や特定の対象を理解する最良で最速の道であるという風に信じて疑わなかったような気がする。
しかし、他の人に起こっている似た状況や、そういった「状況」一般について学んだ上で、本当に理解したい対象である特定の対象の特定の状況に接する事はとても意義のあることだと知ったような気がする。
「人を知る」ということについてなんだかとても考えさせられた。
そして、今まで、こういう風に全く理解できずにスルーしてきたものの中で、実は理解できたかもしれない事が沢山あったのだろうなと考えるとなんとも複雑である。
読んでいただき、またコメントいただきありがとうございます!
南条あやさんが亡くなって20年近く経ちますが、その言葉が今なお人の心に届いているのは凄い事だなぁと思います。
私も、南條さんの気持ちが、分かります。
リストカットをして、落ち着く人もいます。
私は、そうなのかも、しれません。
自分、しないくせに、人にあれやれ、これやれ
本当に疲れる
私からすればリストカットは心のよりどころ