パウロ・コエーリョ『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』

密かに俺が「ブラジルのこえぴょん」と呼んでいる、またしてもパウロ・コエーリョの著作、『ピエドラ川のほとりで私は泣いた』を読んだ。
このパウロ・コエーリョの本は古本屋に行くとなぜか100円の棚に収まっているのが目に付き思わず買ってしまう事が多い。
で、そういう感じでついつい買ったこの本。
真実の愛(恋?)とやらに落ち、人生の意味とやらを見いだし、そしてその人を失う?というお話。
作者お得意のスピリチュアル恋愛小説と言ったところ。
タイトルは旧約聖書、詩編の一節「バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた。」から取ったもの(だろう)。
バビロン補囚で異国にあるイスラエルの民が破壊し尽くされた故郷を思って泣く様を、失った恋しい人を思って泣く様になぞらえている(に違いない)。
で、後に続く「もしも、わたしがあなたを忘れるなら、わたしの右手はなえるがよい。
わたしの舌は上顎にはり付くがよい
もしも、あなたを思わぬときがあるなら
もしも、エルサレムをわたしの最大の喜びとしないなら。」

という意味も込められているという事やね(たぶん)。
さすがにまもなく34才という毒男が読むような本じゃないなぁ…と思わん事もないが、読みやすい分厚さと文章であっという間に読んでしまった。


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スピリチュアルな神秘主義路線をひた走るパウロ・コエーリョが胡散臭くなりきらないのは、その路線を普通の恋愛話に持ってきて一般化してしまうところと、普段の日常生活に役に立つレベルで話をすると言うところやと思う。
そういう意味であまりに普通な恋愛感情から来る苦悩とか歓喜を宗教的というか、スピリチュアルな方向や神秘主義に結びつける様が非常に巧みだし、確かに前向きな考え方ではある。
たしかにこの年になって、色んな本に対する耐性がついて、ややこしいひねくれ方と歪み方をしてもなお、この本を読んで感動するところはある。
この本を読んで失った恋を肯定したり未来の恋に向けて歩き出した。てな感じの事をアマゾンの評に書いてる人が結構多いけど、なるほどそんな気分になるのは解るような気がする。
恋愛が宗教的で狂気の側面を含んでいるのはわかるけど、結局その対象を失ったり得たいと望んだ場合、それをどう処理してどこに持って行くのかという事なんやろうね。
でも、無理矢理恋愛するくらいなら、加茂川で魚釣ったり、良い本を読んだり、良い音楽を聴いたりする方がよっぽど「エウ・ゼーン」やと、個人的には思うぞ。
とこの本を読んで思った。
そういう話じゃ全然無いねんけどね…

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