ミラン・クンデラ 『笑いと忘却の書』

最近お気に入り小説家の上位に急上昇しているミラン・クンデラ の『笑いと忘却の書』を読了。
ミラン・クンデラが亡命先のフランスから出版した最初の小説であり、この出版が直接の原因となってチェコの市民権を剥奪されたらしい。
amazonの紹介によると

党の修正により、となりの男に貸した帽子を除いて、すべての写真から消滅した男。一枚の写真も持たずに亡命したため、薄れ行く記憶とともに、自分の過去が消えてしまうのではないかと脅える女…。〈笑い〉と〈忘却〉というモチーフが、さまざまなエピソードを通して繰り返しヴァリエーションを奏でながら展開され、共鳴し合いながら、精緻なモザイクのように構成される物語

ということで、体裁は一応短編が複数個集まっている構成でも、物語の中に突然作者が登場したり作者としての語りが入ったり、写実的な話で突然少女が浮かび上がったりと、今までの小説に無いようなそういう展開に戸惑って、意味とストーリーの流れを掴みにくく、そういうところが読みにくかった。
しかしながらそういう構成はミラン・クンデラ特有のスタイルなわけで、慣れてしまえばそのミラン・クンデラ節は何とも心地よい刺激を与えてくれるものでもある。
確かに「笑い」と「忘却」がテーマになっているのは良く分った。


amazon ASIN-4087731464この人の本を読んでいつも思うのが精神と肉体(を分けてみた場合)のバランス感覚が絶妙だなという事であり、彼の語る言葉や語彙や感覚はどこと無くニーチェを思わせるものがあると常々思ってきたけど、この本を読んでほぼ間違いないように思うに至った。
後の小説で主題として取り上げられる「不滅」や「重さと軽さ」というテーマもそのままそうだし、この本の主題である「笑い」と「忘却」しかり、さらに「リートスト」なる「ルサンチマン」と「逆ギレ」と「潔癖完璧主義」と「腹いせ没落衝動」が混ざったような他の言語に翻訳できないチェコ語の概念もあまりにニーチェ的やと。
個人的には第五部の「リートスト」が一番興味深く身につまされて痛々しく、自称インテリ臭いけど全然もてない諸氏を「リートスト」のどん底に叩き込んでもうそこから浮かび上がらなくてもいいやぁ。と思わせるに十分の破壊力やし、そこのところは<ナニをしないことの、ぞっとするような「リートスト」>この一言に凝縮されているような気がする。
この本の中で「書記狂」なる本を書きたいというやむにやまれぬ欲望は、1,無益な活動に身を捧げられる余裕が多く、2,個々人の全般的な孤立化の度合が高く、3,社会的変化が決定的に欠けている。の三つの状態がそろった時に宿命的な疫病の規模となり、いったんその疫病の規模にかかると症状が条件にフィードバックしてますます症状が酷くなるといった循環機構を持つという。
村上春樹が「文章を書くことの落とし穴」、アゴタ・クリストフが「書けば書くほど病は深くなる」と言った風に表現される症状はこういうことではないだろうか。
そして一人で、毎日欠かさずブログを書き続けるということもまたそういう傾向があるかもしれない。
それが「リートスト」と「笑い」と「忘却」に何の関係があるのかはよく分らない。

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