J.M. クッツェー 『敵あるいはフォー 』

この本でクッツェーを読むのも三作目。1986年に書かれた作品であり、ダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』のパロディという言われ方をするけど、当然そんな単純なものじゃない。
日本語のタイトルは『敵あるいはフォー』だが、原題は『FOE』で古英語で「敵」、ダニエル・デフォーの本名と言う二つの意味を指すらしい。
英国の女性が漂流して島にたどり着き、島に住み着いた「クルーソー」とその下僕の「フライデイ」に助けられる。
とここまでは「ロビンソン・クルーソー」のパロディやけど、フライデイは舌を切られて喋れないし、クルーソーは全然働かんし、冒険やサバイバルとは縁遠い生活をするうちに通りかかった船に助けられる。とここまでが序盤の序盤。
英国に帰った主人公はゴシップ作家のダニエル・フォーに自分の体験を執筆するように依頼するが、フォーは行方不明になり、作品の完成だけに執着する主人公がだんだんおかしくなってくる所から本当の物語が始まる。
中盤以降は主に「書く事」「物語」「体験」などをテーマとした何とも緊迫感に溢れた読み応えのある物語。
なんかアゴタ・クリストフっぽい鬼気迫る雰囲気があった。


amazon ASIN-4560044716イギリスに帰ってきた主人公は終盤に差し掛かるまで、喋る事の出来ないフライデイだけを相手にしている。
それは自分の中の言いたい事や表現したい事があってもそれを受け止めてくれる相手がいないという事であり、その自分を表現したい衝動が時間がたつにつれ狂気の方向に向かって行く様が、主人公がフォーに書く手紙という形を取って表現され、何ともいえない緊迫感を生み出している。
最後の最後でフォーに会ってその衝動が爆発するわけやけど、漂流という強烈ではあるけどちょっとした経験を物語にするという欲求のために「私の全人生が物語になってしまって、私の手元には何もなくなってしまいました」と主人公の過去と未来の人生が犠牲になりかねないわけであり、それは主人公が強烈な経験をして、それを自分の手ではなく人の手で物語にしようとする、という二つの原因から成り立っているように見える。
しかしながら、これはその主人公だけの話じゃなくって、誰でも多かれ少なかれ強烈な経験をするわけで、その経験だけに引っ掛かって留まって前に進めない、例えば肉親の不幸やとか失恋から立ち直れないなんてのもまたよくある話でもある。
その「強烈な経験」から脱して日常生活に戻るためには色々な方法があるけど、その方法の一つとして「強烈な経験」を「物語化」することでそれを乗り越えるとする見方がある。
それは世界と自分の係わりである体験を通してその係わりの形を検証する、いわば「いつか世の中に対して自分を清算」する行為であり、この本の話は殆どがその事について語っているように読めたし、また本の中の他人の経験を自分の「物語化」にいかに結び合わせるか。というところも語っていたように思う。
他人に言葉を伝える事が出来ないからといってフライデイに物語が無いわけではないように、誰にでも物語はある。
そしてその物語は自分自身でしか書くことは出来ないものの、他人の物語は自分の物語よりはるかに大きく偉大に見えるのは当然といえば当然で、また少なからず本などというものを読んでいると、その本の物語性の偉大さに比べ、いかに自分の人生の物語が取るに足らないものか。というところに慰めを見出す傾向が出来上がりそうになる。
しかしながら結局それは自分の物語を拒否している事に変わり無く、自分の物語を自分自身で作ろうとしない方向性の上では、物語に耐えうる経験をすれば他人に物語を作って欲しくなるような主人公の状態と同じと言えなくはないだろう。
人生について感じる疑いの集積とも言える自分の物語をなぜ書くのかについて、作中の作家であるフォーは、それが自分が迷った標しであり、またそこに戻ってやり直すための目印であると言っているのは何とも含蓄深いような気がした。
なんか意味のわからん文章になったけど…いやいやクッツエーおもろいです。

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