J.M. クッツェー 『夷狄を待ちながら』

もうすっかりお気に入りのJ.M. クッツェーが1980年に書いた『夷狄を待ちながら』を、半分は日曜日にうつらうつらしながら夢うつつ状態で、残り半分を風呂で半身浴しながら読んだ。
原題は「Waiting for the Barbarians」という事で、アマゾンの紹介を引用すると、

静かな辺境の町に、二十数年ものあいだ民政官を勤めてきた初老の男「私」がいる。暇なときには町はずれの遺跡を発掘している。そこへ首都から、帝国の「寝ずの番」を任ずる第三局のジョル大佐がやってくる。彼がもたらしたのは、夷狄(野蛮人)が攻めてくるという噂と、凄惨な拷問であった。「私」は拷問を受けて両足が捻れた夷狄の少女に魅入られ身辺に置くが、やがて「私」も夷狄と通じていると疑いをかけられ拷問に…。

という事になる。
帝国主義と植民地、老人の性、人間の尊厳、ともう渋すぎる激シブテーマ目白押し。なんつーても「老人の性」つーほど渋いテーマは中々無い。
しかも、こういう風な老人になっても飽く事の無い性欲の乾きに苦しむ様を読むとなんか絶望的な気分になる。滑稽であれば滑稽であるほど絶望的やね。
あーやだやだ。


amazon ASIN-4087604527この本をgoogleで検索すると一番に出てくるのはアマゾンでもBK1でもなく、山形浩生がこの本に対して書いた書評である。
んでもって、その書評でこの本はボロクソに言われているわけやけど、そのボロクソに言われる根拠は、現実の状況なり問題を浮かび上がらせて提示するものとしての小説/文学は圧倒的有利さでテレビやネットに取って代わられており、この小説に新しい思考材料や独自の答への試みが読み取れない限り(実際読み取れない)、著者の個人的な問題を知的意匠で一般化して逃げただけの文章の集積に過ぎない。と大体こんなところだろう。
んー確かにそうやなーさすが山形浩生と思わん事も無いけど、しかしながら、同じような事件や史実があったとして、テレビやネットがこの民政官を、この小説で語られているような形で語り得る事が可能だろうか?と私は疑問に思う。
史実や事件をリアルタイムにそのままの形で伝えるのは確かにネットやテレビが有利やろうけど、歴史的な史実や事件を語るふりをして、実は老人の欲望であったり迷いや絶望や自己嫌悪や憤怒を描く事は小説という形でしか取れないだろう。(まぁ、そういう形で語る事に意味があるのかどうかは置いといて。)
考えてみればこの小説は、個人の名を残すつもりで歴史を語ろうとして歴史に取り込まれ、敵国主義に反対したつもりでいつの間にか帝国主義の片棒を担がされ、娘を夷狄に返して感謝されるはずが娘の率いる夷狄に侵略される(予定の)民政官の物語である。
物語の構造としてミイラ取りがミイラになる話であり、歴史を語るふりをして個人をしか語っていないというところがミソなのである。
大きな歴史や波乱や物語を個人に帰すという贅沢な構成は、小説のみに取り得る形態であり、この小説はそれを体現してるのだと土偶は思うわけである。
クッツェーはサミュエル・ベケットの研究をしていたので、この本は『ゴドーを待ちながら』と関係があったりパロディー的な要素があるのか?と思われるけど、あまりそういうことは無く、どちらかというと、アレクサンドリアのギリシア詩人カヴァフィスの邦題「野蛮人を待ちながら」という、野蛮人が攻めてくるのを待つ古代ローマの話を下書きにしているらしい。
というのが定説になっているようやけど、「ホンマか?マジでか?絶対か?命かけるか?」とも土偶は思う。
なんとなれば、「ゴドーを待ちながら」では結局最後まで「ゴドー」が何物かわからんのがミソの話しやったし、そこのところを考えると、結局最後まで「夷狄」が何物を捉え切れんかったこの話は『ゴドーを待ちながら』に似た構造を持ってるといえなくも無い事はない事ない事ない事…
そろそろ寝るかな。

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