G・ガルシア=マルケス 『エレンディラ』
例のごとく風呂で半身浴をしながら読破した。
農家の鶏小屋で見世物として飼われる、天使と呼ばれる翼の生えた老人、世界中から人を呼び寄せるほどの薔薇の匂いが漂ってくる、腐った蟹と海草に埋め尽くされた海、誰しもが好きにならずにはいられず、見る人全てを魅了せずにはおれない程の感じが良い水死体、自分の死ぬ日をはっきり知っている、紙を蝶のように舞わせる上院議員、自分を町の皆に認めさせるために、幽霊船を誘導して自分の町の浜に座礁させる男、ペテン師の行商人を生きながらに墓に葬る、治癒力を持った占い師、そして屋敷を家事にした弁償をさせるべく孫娘に客を取らせる砒素でも刃物でも中々死なない緑色の血を流す祖母。
と同じ場所と共通の登場人物が登場する7編の短編が収められた、“大人のための残酷な童話”と言う事である。
1972年にオリジナルが書かており、以外に古い本でびっくりした。
読んでからネットで調べて始めて知ったのやけど、最後の『無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語』は1983年に映画にもなったらしい。
マジックリアリズムと言う言葉を多用するけど、ガルシア・マルケスが老人の天使やの緑の血を流す殺しても死なない老婆だの、振れるガラスの色を変える程の恋煩いだのといったストーリーや設定といったいわば外面的な部分だけでその手法を使っているわけは無く、「始めはミミズのように、ついで兎のように、最後は海亀のように愛し合った。」「女はまもなく亡くなったが、先妻のようにばらばらにされてカリフラワーの野菜畑のこやしになるという幸運には恵まれなかった。」などのように内面的な感覚の部分で「魔術的リアリズム」をもって世界を眺めているのが良くわかる。
言うまでも無くそれはラテンアメリカのリアリティーであり、その文化圏の外にいる我々がそれを眺める時には、関西人がサウンド・オブ・ミュージックのように1から10までの数を数える時に節をつけるのに、関西の家庭にスイスの各家庭に支給された小火器のごとくにもれなく「タコヤキ器」が配備されている事実に関東人が理解できない摂理の働きを感じて驚愕するように、我々はラテンアメリカでは人が空を飛び、死人が蘇り、海の中で会話をするのに驚くわけである。
昨日読んだ『愛その他の悪霊について』もそれなりの胡散臭さはあったけど、それは魔女狩りやら悪魔憑きやら錬金術といったどちらかと言うとスペイン風味なヨーロッパ的胡散臭さであり、今日読んだこの『エレンディラ』は純粋なラテンアメリカのマジックリアリズムな胡散臭さやと思う。
どう見ても胡散臭いこういった話が、ある世界では確固たる信憑性を容易に抱き得る程の客観的事実として受け入れられている様を読むと、現実ってのは結構脆弱なもんやねんなと思わざるを得ないわけであり、
こんなはずじゃなかったことは、あんなはずでもなかったんだよ。ということである。