三島 由紀夫 『奔馬』 (『豊饒の海』 第二巻)
某レディお勧めのシリーズ『豊饒の海』の第二巻『奔馬』を読了。
一巻を読んだ後に直ぐ読み始めていたのだが、最後まで読むのに結構時間がかかったのは、単純に一日や一週間の中の読書の割合が減ったただけで、読んでいる時間自体は結構短かった。
この第二巻は、第一巻の『春の雪』が感情のままに流される美しい青年のはかない美しさを描いていたのとは全く別方向の話で、主人公は一巻の主人公の生まれ変わりとなっていつつも、爽やかで純粋できりっとした国粋主義の剣道青年が、クーデターである「神風連の乱」を描いた書物の青年たちの純粋さを理想として、昭和の神風連たろうと、同様のテロを起こそうと目論む話である。
大儀の為に、現状の社会に対して異を唱える意味合いで要人襲撃を行い、失敗しても成功しても自分たちの純粋性を示すために切腹する事だけを願う。「花と散る」「自刃」といった単語で表される「死に方の美学」を志向した美の方向性と、タイトルの「奔馬」的な純粋なエネルギーに満ちた美しさを描いており、ほとばしるエネルギーと美しく散ることを望む欲求が混ざり合って、一種独特の歎美な感覚を醸し出している。
主人公の飯沼勲の反社会的にまで張り詰めた危ういまでの純粋さを大人たちはハラハラして見ていられないようで、一巻からの登場人物の本多は、昔の純粋性は歴史的な状況を考えて捉えるべきで、それを今の純粋性としてあてはめるのは間違ってる。今の状況に成り立ちうる純粋性を持て。って感じで、つまりは世知辛い世やねんからもっとしたたかになれ。と忠告し、勲の最も近い人、つまりは親、先輩、想い人もことごとく勲の純粋性を汚すことで世の中に適応させようとする。
結局、彼の純粋性と対立してそれを脅かすものは、自分を否定し自分が否定する絶対的な他者ではなく、自らが直接的に向けたり向けられたりする愛であり憎しみの対象であり、つまりは自分の中にある他者の存在であることはなかなか含蓄深い。
一巻の『春の雪』も二巻の『奔馬』も今から見れば明らかに時代錯誤やし、発表された当時もそういうところはあっただろう。
まぁ彼らの言わんとする事となぜそうするのかを頭で理解できても、感情的に自分がそうしたいかと言うと、そんなことは無いだろう。
しかしながら、確かに今でも通じる普遍性のある美しさってのは確実にあるわけで、そういった人間の美しさって言うのは、どことなく時代遅れなドン・キホーテ的な部分を持っているのかなと感じると同時に、この『豊饒の海』シリーズは「輪廻」「夢」「美」がテーマやと言われるけど、「純粋さ」ってのも外せないところやなぁと思った。
『春の雪』といい『奔馬』といいちょっと俺には感情移入しにくい主人公やけど、理性と世間の代表である本多の存在がその辺をびしっと締めてくれて、そのおかげで彼らの美点がとても浮き立つ。
その辺のあたりのバランスというかメリハリがとても際立ってて、全く違う『春の雪』と『奔馬』の二つの話に同じものが流れているのを感じるし、話としてもとても面白くなり、自分と異なる美にとても興味を持てる。
そんな三島由紀夫の力量のおかげで、下手するととてつもなくチープになりそうな物語が芸術にまで高まっていて凄いなぁと。
前回の『春の雪』を読んだ時に思って書くのを忘れていたのやけど、『春の雪』に出てくる「飯沼茂之」ってカラマーゾフの兄弟の隠れ四男坊「スメルジャコフ」に良く似てるなぁと思った。