三島 由紀夫 『暁の寺』 (『豊饒の海』 第三巻)
『豊穣の海』シリーズ第三巻『暁の寺』を10日ほどかけて読了。
前半は唯識を中心とした、ヒンズー教と混ざり合った仏教思想の話が、タイとインドを主な舞台として語られ、後半は58歳になった本多の倒錯した性的な冒険と言うか企ての物語である。
タイの「ワット・アルン」を指している『暁の寺』が舞台という事やけど、これが出てくるのは前半少しだけ、松枝清顕の転生したタイの王女ジン・ジャンが主人公ということになっているけど、松枝清顕、飯沼勲と濃いキャラクターが主人公だった1巻と2巻に比べて、ジン・ジャンはキャラが薄いし、明らかに本多繁邦が主人公だろう。三巻にしてやっと主人公の座を勝ち取ったという感じか?
いずれにせよ、この歳をとったがゆえの、思想的にも性倒錯的にも濃厚な濃さとキャラは主人公に相応しい。
読み初めていきなり、冒頭からの大理石寺院に始まるタイの描写に圧倒される。なんやねんこの描写スゲーとひたすら驚いた。凄い、これは凄すぎる。
そして前半、一部で展開される仏教思想もとても興味深く面白く読めた。唯識思想での、アーラヤ織を巡る種子と薫習の関係を「世界の存在理由」にしている辺り、つまり、アーラヤ識を通じて芽吹いて実った「種子」が「薫習」によってアーラヤ識に還元され、アーラヤ識が浄化されるという輪廻からの解脱のプロセスの発現する場として、迷界としての「世界は存在しなければならない」という部分に結構驚いたのだが…
これは一般的な唯識論なのか、三島由紀夫独特のものなのだろうか?
そしてインドのベナレスの風景でそれらの思想が根底から覆って無常観に置き換えられたように見えた。
そして二部の後半は、大金をつかんだ本多の、タイ王女ジン・ジャンを巡る、濃くて倒錯して見苦しい性的な欲望とその企ての物語やけど、直接的でなくやってる事もそんなに大した事は無いわりに、キャラ的に滲み出す無駄なねっとり感と、前半の唯識思想を語っていたギャップがあるから余計に凄みが出てくる。
本多自身が言うように「正義の前科がある」わけで、確信犯的であるからこそ救い難い、つーか喜んで次は畜生道に参りましょうという感じの悲壮感と凄みと無常観が何とも言えん。
「夢と転生」がテーマと言われるこのシリーズやけど、松枝清顕から飯沼勲へと転生し、次にタイ王女ジン・ジャンに生まれ変わった訳やけど、転生やと言い切れる部分が薄くなって、なんか「転生」色が薄くなって来たような気がする。
この物語はどこへ向かおうとしているのか?
次はいよいよこのシリーズ最後の『天人五衰』ということで楽しみなような残念なような…
はいラスト一巻頑張りますです。
「唯識分ってる」なんて言うと本気で研究してる諸氏に怒られそうなので、土偶なりの解釈を言うと、人間の心を、五感+意識、マナ識(自我)、アーラヤ識(遺伝的で歴史的で無意識的な要請) の八識とする見方だけが唯識思想なんじゃなくって、良い(五感+意識)→マナ識→アーラヤ識へと逆順に悟りの種子を「薫習」してゆけば、アーラヤ識自体が「種子」でちょっとずつ変わって、またマナ識、五感+意識へと影響を及ぼす良循環が唯識のキモやと思っとります。
で、たしかに「この世界すべては阿頼耶識なのであった」ってのは善悪を超えた人間存在の根底のレベルの話やので、「純粋欲求と純粋感情は正しい」みたいな感じで、逆におおらかでヒューマニズム溢れていて安心できるのもよーくわかります。
第三巻、お疲れ様でした。
アーラヤ識については、実はよく分かっていなかったので、土偶さんのまとめで「なるほど!」と納得できました。
「この世界すべては阿頼耶識なのであった」というところを以前はなん感慨もなく読んでいたのに、今それを目にした時少し安心したような気持ちになるのは、私が変わったからなのでしょうね(^v^)
第四巻、楽しんでください♪