栗原 隆  『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』(シリーズ・哲学のエッセンス)

amazon ASIN-4140093064最近お気に入りのシリーズ本「哲学のエッセンス」の『ヘーゲル―生きてゆく力としての弁証法』を読んだ。
一回目は一気に読んで微妙に判りにくかったので、二回目はちょっとゆっくりめに読む。余りにお手軽でこんなんでいいのか?と思うのは気にしないことにする。
ヘーゲルといえば弁証法というイメージやけど、この本はそのヘーゲルの弁証法を、自己否定や自己矛盾、「あれか-これか」の状態を解消し、高次の概念や存在にするものとして説明していた。
そしてその弁証法が、概念や自己への否定、同一性と非同一性、無媒介的な知と媒介的な知、などを契機に「悟性」の段階から「否定的理性」の段階、そして「肯定的理性」へと如何に止揚するかという様が描かれていた。


生きていて日常的に遭遇する自己矛盾であるとか自己否定を、懐疑論的に答えの出ないものとして判断保留の立場で置いておくのではなく、どちらも否定されずどちらも肯定されない超越的な高次の次元で解消されるのを目指すのが弁証法であった。
ある前提だけを頼りにする判断、つまりは悟性的な状態に則った判断は有限的な認識であり、その有限性を否定してその有限性を乗り越えるところに弁証法の意義がある。
われわれの陥るのっぴきならない絶望的な状態を有限性に囚われた状態として、その有限性から解消される形でその状態を克服することをこの本では直接的な弁証法の発現の場として扱っていた。
その絶望的な状況とは例えば自己矛盾であり、葛藤であり、自己否定であるけど、弁証法的に言えばそれらはただの避けられるべき苦しみに過ぎないのではなく、自らをより高次な存在として「なる」為の契機として捉えられるわけである。
そして、如何にしてそのより高次な形で解消される「止揚」なる状態が訪れるのかと言うと、矛盾や否定の先に、自分の望むべく状態や認識があることを前提としてその矛盾や否定にあたり、そこを目指すような形で投機する事によって展開されるのだと言う。
それは結論を前提として展開されるいわば循環論法的な構造であるけど、その循環論法を論理的手段として使うべきでないという有限性を乗り越えること、つまりはその「循環」を引き受けることこそ「思弁」なのだという。
常識や一面的な見方に凝り固まって疑いも矛盾も抱かない状態よりも、自らの有限性に絶望する弁証法的な契機の多い状態のほうが良しとされる見方は、惑いや迷い、悩みや憂い、葛藤や自己矛盾や自己否定を常とする人間にとってとても救いに見えるだろう。
たしかに自己矛盾や自己否定を抱えて絶望しながらもあるヴィジョンに投機して思弁し、以前の有限性を越えた認識や存在に「なる」ことで弁証法的に解消されたり止揚されてゆく様はなかなか感動的なものである。
哲学が卓上の空論ではなく、生活や世界に密接にリンクしている、リンクしていなければいけないと常々私は思うわけやけど、この弁証法の話はとても直接的に生活のレベルに根ざしているような気がする。
タイトルである『生きてゆく力としての弁証法』というタイトルはそういう意味でとてもいいタイトルだし、タイトルがちゃんと内容を表しているいい本だと思った。
しかしながら、「我々の人生は弁証法的に止揚される」ということもまた有限性の範囲内であるように思った。

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