ブレーズ・パスカル 『パンセ』 由木康訳

amazon ASIN-B000JBBMQ6田辺 保『パスカル――痛みとともに生きる』野田又夫『パスカル』の二つの入門書で予備知識を仕入れた後、ブレーズ・パスカルの『パンセ』を読んだ。結構前、2007年の年末には読み終えていたのやけど、余りもヘビーな本やったので、感想を書くのがかなり遅れた。かなり長い上にまとまりが無い感想になった。と言い訳をしつつ書いてみる。
ブレーズ・パスカルの『パンセ』なる文書はパスカルの死後に大量に発見された遺稿の中から、いわゆる「護教書」のために書かれた文章をテーマに沿って編集しなおしたものであり、色々な学者の編集の仕方によって内容の違うポール・ロワイヤル版、ラフュマ版、ブランシュヴィク版などが存在するらしい。
私が読んだ『パンセ』は世界の名著シリーズの由木康訳のもので、現在最も一般的となっている「ブランシュヴィク版」からの翻訳である。
「パンセ」なる言葉自体はフランス語で「思想」や「思考」を意味しており、『パンセ』の邦題として『瞑想録』などを使う場合もある。またこの本の中に多く含まれてあちこちで引用されることの多い「名言」のせいで、この本は日々の思いを書き綴った随筆のようなものであるような捉えられ方がされることが多いように思う。
確かにそれは間違いではないけど、この本はただの随筆ではなく、既に信者の人にはその信仰をますます強めさせ、信者で無い人にはキリスト教に勧誘するのを目的として書かれた「護教書」のための草稿集であるということは結構大事な割に忘れられている場合が多いのではないのだろうか。


『パンセ』の初版の正式題名の和訳が『宗教および他のいくつかの問題に関するパスカル氏の諸考察 ― 氏の死後にその書類中より発見されたるもの』であるけど、今となってはその中の「パスカル氏の諸考察」だけがクローズアップされているように思われる。
彼の生涯を考えてみるに、若いころに天才として現代にも残るほどの功績と実績のあった自然科学よりも、人生を賭けて他の全てを捨てて全力で追求するに値するとしてキリスト教の道に踏み入ったわけであるから、彼の熱意は並々ならぬものがあるだろう。
そういう意味でこの『パンセ』を「護教書」であるとして見た場合、この本の内容は至ってシンプルな構成になって来る。簡単に言ってしまえば、世の中にどれほど醜さと苦しみと不条理しかないか、人間がどれだけ弱く、その理性が脆弱で感情が醜いのかを描き、そして神の偉大さと、その神の道を追求することがどれだけ素晴らしいか、そしてその神に人生全てを賭けることがどれだけ素晴らしいか、を語っている文書集ということになるだろう。
世界と人間への深い洞察から数々の名言が生まれ、それらを世界の人々が引用して利用しているということは、つまりはパスカルの世界や人間に対する見方の正当性を示すことにもなっているような気もする。
パスカルの場合はその世界と人への余りにも否定的な認識が神へと向かう原動力と根拠になったわけやけど、我々はその世界と人に対する認識に同意する事は出来ても、神へと向かう事に簡単に同意できるわけではない。このあたりはパスカルも言っていたように信仰に入るのも神の恩恵であると言う事なのだろうか。
パスカルの信仰の目を通して見た世界や人に対する見方は余りにも辛くて読んでいるほうも息が詰まりそうだった。一言で言えば「一切皆苦」であろう。
現在では一般的に良い事とされるような、自然科学や哲学などの学問の追及や特定の人間に対する愛でさえも苦しみや世の中の不条理さから「気を紛らわす」事に過ぎないというくらい、世の中に追求するべきものは何も無い空しい世界であると見なしているし、人間の人間に対する愛でさえ否定しており、人間に対してもその感性や理性や信仰に対してまでも絶望的と言って良い程の見方をしている。「われわれのあらゆる不分明から結論しうることは、われわれの無価値でなくして何であろうか。」という自虐系ダウナーニートブログあたりに良く見られそうな悲痛な言葉をパスカル自身が発している事はなんとも居たたまれない。
それは、信仰に入っても依然として苦しみはあるし、より苦しくなる事すらある事をリアルに表わしている。信仰に入ってしまえば全てが変わって世界は素晴らしいものになるといったような安直な見方を打ち砕くようなものでもあるだろう。
パスカルはこのような世界と自分のありように何らかの価値と意味を付与するには信仰しか無いと言ったわけであるけど、その信仰の対象としての神も、我々にもわかりやすいような「たんに幾何学的な真理や諸元素の秩序の創造者にすぎないような神」ではなく、贖罪の象徴であるキリストを有するキリスト教であるところに意味があると言う。そして人が信仰に入るのは神の恩恵意外に無いと言う事に対して、結局日本人に根付いているような「一切衆生・悉有仏性」な見方からすればなんかちょっと怖いものを感じた。
一旦信仰に入ってもその信仰を守るためにも色々苦労があるわけで、パスカルがそういった信者に対してミサに行ったり祈りを捧げたりと言った習慣的なものとても重視していて、何も考えずに自らに宗教的習慣を課す事で、肉体的な習慣性が精神的なものに結実するような事を言っていたけど、そのあたりの人間の信用の出来なさと無価値の認識が徹底してるなぁと思うと同時に「ただ念仏して弥陀にたすけられまいらすべし」に通じるものがあるなぁと。
宗教となればキリスト教やろうが仏教やろうが相通じて似ているところがあるのは当然の話やけど、最も東洋的な部分と最も西洋的な部分が似ているのはちょっとした驚きやった。
たぶん「たんに幾何学的な真理や諸元素の秩序の創造者にすぎないような神」に対する信仰のようなものなら私も持っているだろう。しかしそういった神はパスカルがきっちり否定しているわけで、信仰に限りなく近いようなメンタリティーを持っていると思っている(と思っている)私が信仰に至らないのは結局神の恩恵が無いと言う事なのだろうか。
この本の世の中や人に対する見方は私にとっては痛いほど共感できるものだった。この本が「護教書」である事を冒頭で書いたけど、そのキリスト教への勧誘の書としての側面は、ここに来る気ならそれなりの覚悟で来やがれ。という風に読めた。しかしながら私は哲学的な救いがあるはずであるという感覚を捨ててはいないし、そこを目指す気概は残っている。
それでも、「プラトンが少数の選ばれた教養ある人士にさえ説得しえなかったことを、あるひそかな力がわずかな言葉によって幾百万とも知れぬ無知な人々に、したのである。」というパスカルの言葉には「うっ・・・」と詰まってしまうやね…
何れにせよ、「世と人に対するニヒリズム」への一人の偉大な男による一つの回答がここにあるだろう。

2件のコメント

  • 「人間は考える葦である」考?

     ブレーズ・パスカル(Blaise Pascal、1623年6月19日 – 16

  • 『パンセ』2章 断章 122・123

    「時は苦しみや争いを癒す。なぜなら人は変わるからである。
    もはや同じ人間ではない。侮辱した人も、侮辱された人も、
    もはや彼ら自身ではないのである。」(断章…

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