アウグスティヌス 『告白』 山田晶訳(世界の名著 14)

amazon ASIN-4124000944古代から現在に至るまでのキリスト教の最大の教父であり続け、西洋世界に多大な影響を及ぼした偉大な神学者であるアウグスティヌスの自伝という事になるのやけど、当然「自伝」なるものに良くありがちな自己満足的で自己顕示的なものでない。
自分自身の幼年期から北アフリカの小さな町ヒッポの司教に至るまでの人生と罪をそして彼が今何を考えているかを神と人々の前で告白するという趣旨で書かれた本である。
全体としては十三巻の構成であり、私の読んだ山田晶訳の『世界の名著 アウグスティヌス』では上下二段の500ページ超ととても長く、更にその中のどの一センテンスも油断して読めないくらいに内容の濃い本であった。
アウグスティヌスの『告白』の日本語訳としては岩波文庫の服部 英次郎訳と世界の名著の山田晶訳が有名やけど、カトリック信者であり、かつ前に読んだ氏の著作がとても面白かった事もあり、入手のしにくさははちょっとあったけどあえてこのテキストを選んだ。
この山田晶訳の『世界の名著 アウグスティヌス』はアウグスティヌス自身の著作だけでなく、巻頭にあった山田晶の解説が以前読んだ『アウグスティヌス講話』並にとてもためになって面白いものであった。この前半の解説だけでもとても価値があるだろう。


アウグスティヌスの『告白』としての構成は内容的に大きく前半と後半の二つに分かれていると見なされるのが一般的であるようで、前半は彼がカトリックに帰依する事となりヒッポの司教として今に至る所までを、自分の行いと罪を告白するような形で書かれた十巻までを指し、後半は前半のような一般的な意味での告白ではない、主に創世記についての解釈と彼の解釈が語られる十一巻から十三巻までを指しているようだ。
とはいっても後の世の人がつけた区分である後半の部分も彼からすれば前半で述べられる自分の行いと思いと怠りで犯した罪の告白同様に、現在の彼が神とその言葉である聖書についてどう捉えているかと言う告白になるわけで、読んでいても大きく話が変わったと言う印象を持たなかった。
物語としてニュースソースとして彼の回りで実際に起こった出来事について事実関係のみを情報として得ようとする読み方をすれば前半と後半に大きな隔たりが見られるかもしれないけど、彼がこの書物を書くに至った本来の意図である「告白」として、世界の思想の根底の一角を担う余りにも偉大な彼が一個の弱い個人として語る言葉に耳を傾けるつもりで読めば違和感なくひとつながりの話として聴けるし、その前半部分あってこそ後半の考えに至ったんだと感動する事が出来た。
幼年期と少年時代に関する話の一巻、青年時代について書かれた二巻、カルタゴ時代の恋愛とマニ教へ入信する顛末について書かれた三巻、マニ教の熱心な信者として過ごした時代についての四巻、そして五巻ではそのマニ教の呪縛から脱してミラノに移ってアンブロシウスと運命的な出会いを果たしてもう一度洗礼志願者になろうと決心する様が語られる。三十歳になったアウグスティヌスはますますカトリックを深く理解しつつも、初めの女性との離別の後に見つけられた婚約者が結婚できる年齢に達するまで待つ間に他の女性と関係を持ってしまい、自らが肉欲に深くとらわれてとても醜く弱い存在でしかない事を確信するさまが六巻で語られ、七巻では三十一歳の彼が神については良く理解しながらもキリストについては正しく考えていなかった事が告白された後、八巻では信仰を求めてあがいていた三十二歳の彼が何人かの偉大な宗教者の回心と信仰の話を聴いて、激しい霊肉の闘争の末、導きによって完全に肉欲を捨てて修道士になる決心をする様が描かれる。恐らくこの本で最も感動的な涙なくしては読めない巻であろう。
そして九巻は山荘での信仰のみの生活と母モニカの死について語られ、十巻では現在での彼自身の信仰と自分自身について告白する。
十一巻からは創世紀についての解釈の試みであり、十一巻では「時」について、十二巻では「天と地」ついて、十三巻では主に「三位一体」について自分の知る事を告白する。というのが全巻を余りに短く説明してみた内容である。
冒頭の一巻で、子供の頃に勉強をサボって遊び呆けていました。と自分の罪として告白するところで結構驚いたと言うか、こんな偉大な人がこう言う事を言うのだととても微笑ましかったのだが、我々から見れば、彼が罪にまみれたと告白する時期、例えば遊び回っていた青年時代でさえそれなりの信仰を持っているように見えるのやけど、彼にとって信仰とは自分の存在全てで飛び込むものであると捉えられており、そう言う意味ではアウグスティヌスの捉える信仰とは我々の言うようなチャチな信仰とは桁が違う。
そんなアウグスティヌスが信仰の道に飛び込む事を躊躇させ、最後まで捨て切れなかったのが「性欲」であるところがまた何とも言えない。
山田晶が言うように、たしかに今の我々から見れば彼の告白する欲望としての恋愛は「純愛」に見えるし、彼が決定的に自分が弱い存在である事を確信し、神にすがる意外に道はないと確信するに至った自身の醜さである罪は、最初の「純愛」である女の人と別れ、社会的に地位を固めようと結婚するために婚約者が探されて、その婚約者が結婚できる年齢になるのを待つ間についつい他の女の人に手を出してしまった。と言う事実である。
一般的に今から言えば「ギリ浮気」位のレベルであり、この位どころかもっと見るに耐えない事をしながらも何の良心の呵責も感じず、更に自分の浮気や不倫を何か誉のように語る余りに見苦しい人々すらいるくらいで、今から言ってもアウグスティヌスはそれほど非難されるべきでないと言う考えは大きく賛同できる。
彼は若い頃に肉欲にまみれていたのではなく十分立派で好感の持てる成年であったし、ただ今の世ならスルーされるようなレベルの自分の肉欲と素直に徹底的に向きあったと言う事である。
偉大な人は小さな不幸や小さな罪から大きな事を学ぶし、愚かな人は大きな不幸や大きな罪からも何も学ばないものだ。と言う事であろうか。
彼の感じた良心の呵責と、彼の感じた自己否定と、彼の感じた自己の価値の無さは、まともな男性なら身につまされて感じ、また乗り越えられるべきものであると大いに共感できるであろう。
結局、偉大な思想家である彼の本を読んでみて一番印象に残っているのは彼の余りに偉大で余りに清らかで美しいお人柄と言うか魂である。
私の好きな文学作品の著者、例えばドストエフスキーやニーチェ(も文学者的に見ている)などの場合は、お世辞にも人格的に優れた人間であったとは言いにくいし、恐らくそこには著者を離れた物語性の介在する余地があるからではないかと思うのだが、著者と著作はある程度切り離されて独立しうるような気がする。
しかしながら直接的に自らの思想を語る思想家の場合、彼の思想と人格は密接にリンクしてるのではないか。
パスカルしかり、山田晶しかり、そしてこのアウグスティヌスしかり、偉大な思想家であればあるほどその人格もその思想同様に素晴らしいと最近思うようになった。
彼の余りに素晴らしい人格とあまりにも高潔な魂が、最後の最後まで例えば「性欲」といった余りに卑近でちっぽけに見える苦しみや欲求と戦い、とことんまで打ちのめされた末に神に頼る事で勝利を得た様は、彼が自分の告白で同じ意思に躓く人の助けになるようにと願ったように、多くの人に勇気と力を与えるだろうと思った。
最後に、ちょっと気になった事。十二巻の二十九章に「歌はひびくやいなや過ぎ去ってしまいます」と言う言葉がある。
これは有名なエリック・ドルフィーの台詞と同じのような気がするのやけど、エリック・ドルフィーはアウグスティヌスを引用してたのか?凄いなぁ。と思った。考えすぎ?

2件のコメント

  • enzian先生自身がwebページで岩波文庫版をご紹介なさっていたので、どうすっかなーと思っていたのですが、そう言って頂いて良かったであります。

  • 山田さんの訳で読んだのは、正解! 

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