「カラ兄スイッチ」が入る / ミニチュア・リアルとしてのカラ兄
ここしばらくずっと本を読んでなかったけど、以前に買って積読状態になっていた新潮文庫の原卓也訳『カラマーゾフの兄弟』を読みはじめた。
米川正夫訳は何度も、亀山郁夫訳はこの間一度読んだ事あるけど、原卓也訳は始めてである。
冒頭の文章を読んで、ドストエフスキーがその死によって未完のままこの本を終わらせる事によって語ることがなかった、アリョーシャに訪れるはずであった「悲劇的な謎の死」に思いを馳せる。彼にいったい何があったのだろう。
ゾシマ長老の死が決して美しいものではなかったように、アリョーシャの死も悲劇的で謎でしかなかったのだろうか。
思えば私は未完で終わるものに惹かれるような気がする。栗本薫の死によってグイン・サーガも未完で終わってしまった。結局「豹頭王の花嫁」を読む事が出来なかったのはとても残念である。物心ついたころからずっと読み続けてきたグイン・サーガの唐突な完結について思う事はいくらでもある。まだその事実を受け止め切れていないところがあるけど、また、いずれここで書いてみたい。
ふと頭の中で『カラ兄』が読みたくなる瞬間がある。「カラ兄スイッチ」としか言えないものが頭の中で入る瞬間がある。
或いはなにかしらの逃避なのかもしれない。しかし、それでも現実の世界に比べて『カラ兄』の世界が美しかったり素晴らしかったりするわけでは決してない。カラ兄の世界は現実同様、或いは現実以上に醜く混沌と矛盾した世界である。しかしそれでも『カラ兄』の中の美しい点は気の遠くなるほど美しいと思う。
結局カラ兄の素晴らしさはここにあるのだろう。醜く混沌で矛盾に満ちた世界から気の遠くなるほどに美しいものが生まれる実感。あるいは希望と言っても良いかもしれない。
カラ兄的世界からカラ兄的美が生まれるのなら、こんな世の中からでも、こんな世界からでも同じような事が起こるかもしれない。たぶん私はそう思いたいのだろう。
とは言っても、何かを求めて、いや、答えを求めて本を読むのは単純なスケベ根性である。
更に、頭の中で考えられて自分の言葉として述べられるさまざまな考え方や結論は、自分自身のあり方とは全く無関係である。
頭に中にある事は今私の中にあるだけの事で、私自身を表しているわけではない。
私自身が私自身として示し、人から私として捉えられるのは、生活の中、習慣の中で行動する私だけである。
とカラ兄を読もうとする自分自身に言い聞かせておこう。