草間彌生『水玉の履歴書』/「いのちだいじに」

「世の中には二種類の人間がいる。~する人と、~する人だ」的な区分方でもって人間を真っ二つに分けるやり方があるけど、最近思うのは「自殺を身近なものと感じる人間と、まったく自分とは関わりのないものだと捉える人間がいる」ということだ。

そしてそれはたぶんほとんどの場合、ずっと固定されたものであり続けるように思う。「自殺」を考える人間は多かれ少なかれずっとその事を一生考え続けるし、それでない人にとってそれは一生関わりのないもののままである。

そして、なおかつ、おそらく多くの人々にとって、自殺はその人生の中でもっとも大きな問題のひとつである。たとえばノーベル文学賞を受賞したアルベール・カミュはシーシューポスの神話の中で

真に重大な哲学上の問題はひとつしかない。

自殺ということだ。

人生が生きるに値するか否かを判断する、これが哲学の根本問題に答えることなのである。

それ以外のこと、つまりこの世界は三次元よりなるとか、

精神には九つの範疇があるのか十二の範疇があるのかなどというのは、

それ以後の問題だ。

そんなものは遊戯であり、先ずこの根本問題に答えなければならない。

てな事を言うくらいの勢いである。

amazon ASIN-4087206920最近、草間彌生の『水玉の履歴書』 なる新書を読んだ。

私は以前から草間彌生に関するエントリをいくつか書いているけど(たとえばココとかココ)、彼女にとって自殺は一生を通じてずっと自分を誘惑するものであり、自分が戦い続けた敵であり、また、逆説的に彼女の芸術的な創作の原動力となってきたものでもある。

この本には、小さい頃から統合失調症を患ってきた彼女が、絵を描いている間だけその苦しみから逃れることができたので、幻聴や幻覚や自殺の誘惑から逃れるために時間があればひたすら絵を描いていた。彼女にとって創作活動は自らの狂気と希死念慮に対する生き残るための戦いであり、またそれは世界の真理の追究への試みなのだ。ってところがやたらと強調されていた。

彼女の言葉でもって語られるその戦いの軌跡を読んで、私が彼女の芸術に惹き付けられるなにものかが多少見えたような気がする。

考えてみれば、私は昔から「勝ちに行く成功者タイプ」よりも「ひたすら戦って生き残るタイプ」の方により魅力を感じてきたように思う。今となれば彼女は立派な成功者だけど、それは自ら生きるか死ぬかのギリギリのレベルで戦ってサバイバルしてきた結果としてそうなっただけの話である。

今まで私は、生きる上で、何かしら「勝ち」のようなものが必要なのだ。とずっと思っていたけど、最近はもうそんなことよりも、とにかく生き抜いてとにかく負けないようにするのを目指すほうがいいと思うようになった。

とにかく、決定的に負けず、なるべく生き残るように。それを目指すべきだ。

今まではドラクエの作戦コマンドで言えば「ガンガンいこうぜ」やったけど、これからは「いのちだいじに」やな。

うん。吉田兼好はんも

双六の上手といひし人に、その手立を問ひ侍りしかば、

「勝たんと打つべからず。負けじと打つべきなり。いづれの手か疾く負けぬべきと案じて、その手を使はずして、一目なりともおそく負くべき手につくべし」と言ふ。

道を知れる教、身を治め、国を保たん道も、またしかなり。

っていうたはるしね。

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