映画:ハーモニー・コリン 「ジュリアン」 / 白痴系逆噴射家族 / ヘルツォーク、ヘルツォーク

amazon ASIN-B00005MIN7ハーモニー・コリンの最新作である「ミスター・ロンリー」、デビュー作である「ガンモ」と二本の映画を見てこの監督がとても気に入ったので、「ガンモ」の次であり、「ミスター・ロンリー」の八年前の作品となった「ジュリアン」(1999/米)を観た。
統合失調症である主人公ジュリアンを中心にした、誰の子かよくわからない子を妊娠している姉、毎日訓練に明け暮れるレスリング青年の弟、死んだ母が忘れられず家族に当り散らしているばかりいる父親で構成される家族を描く物語で、パッケージの写真はジュリアンの姉である。
一応家族を描く物語であるけど、この映画も「ガンモ」と同様にいわゆる普通な人が全く出てこない。
家族がみんなおかしいだけでなく、そのほかの出演者すべてがそうである。
境界性人格障害、自己愛性人格障害、アスペルガー症候群などは具体的な例を挙げてあんな感じ。と想像できるけど、昔は精神分裂病と呼ばれていた統合失調症については実際がどんなものかをよく知らないので、この主人公の演技がリアルなのかどうはわからない。
それでも、このジュリアン青年の立ち振る舞いは見ていて鬼気迫るものがあった。


このジュリアン青年のようなタイプの白痴系キャラの主人公は、文学的にはたいてい美しいものとして描かれることが多い。しかしながらこの映画では、主人公のジュリアン青年はある種の美しさを持ちながらも見るに耐えない醜さと脆さも持っていた。確かにそれは変なリアルさを感じさせるものであった。
微妙でささやかなバランスの上に成り立っている家族と、その中で生きる息苦しさは、はたから見てるとなんともなんともたまらない。当人たちがそんな生活に慣れ切ってその生活を改善する気が無いところが余計にきついものがある。
この映画の構成だけを見れば、テーマも手法も前作でデビュー作である「ガンモ」の二番煎じであるように思えるのやけど、実際見ているとそんなことは感じない。
この映画が前作と全く違うのが、ある程度のストーリーが存在することである。
とはいっても、そのストーリーは物語を前に進ませる役を担っているのではなく、ただ家族の事態の変容としてのみ捉えられるだろう。
そしてその事態の変容としてのストーリーは、前作では終わらない閉塞感として描かれていたものが、破滅へと向かう閉塞感として描かれることに一役買っているという、なんともいたたまれないことになっていた。
前作では社会の中で閉塞的な息苦しさとして描かれていたものが、今回は家族の中にあるものとして描かれ、かつそれが破滅へと繋がっているように見える分だけ、より逃げ場と救いの無さが際立っていたように思う。
この映画の中で私の一番印象に残っているのがヴェルナー・ヘルツォーク演じる父親のぶっ飛びっぷりである。
ガスマスクをしてテレビを見て、娘と息子たちをヒステリックに罵倒し、息子に死んだ母のドレスを着て自分とダンスを踊るように懇願する。
ヴェルナー・ヘルツォークは私が大好きな映画監督なのだが、「ミスター・ロンリー」を観て役者としても良い感じだと思っていたのだが、この映画を見てその思いはより強いものとなった。この映画での彼の演技はとても素晴らしい。ますますヘルツォークが気に入った。
この映画を撮ってから、ハーモニー・コリンは次の映画を撮るまでに8年間沈黙してしまうのだが、この映画の中でやたらとカオスという単語を連呼する自作の詩を朗読するジュリアンに対して、父親が「カオスを繰り返すばかりで韻を踏んでいない。そんなのは芸術を気取っているだけだ」と罵倒するのだが、これは監督自身の自己批判であったり自虐的なところなのだろうなと思ったり。

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