今村昌平『楢山節考』(1983)/何もかもが強烈なリアルで生々しいパラレルワールド

amazon ASIN-B000066AEQ先日、一月の半ば過ぎくらい、風邪を引く一週間くらい前に今村昌平の『楢山節考』 (1983)を観た。
この作品は83年のカンヌ映画祭でパルムドールを受賞した世界的にも名作として名高い作品であり、70歳を迎えると息子に背負われて山に入らねばならない、とする姥捨ての風習が生活サイクルの一環として社会に根付いている貧しく雪深い山村で、生きるため、村の秩序を維持するために必要な「強烈」としか言いようの無い風習と価値観と共に生きる人々をひたすらリアルに生々しく描いた作品である。
昔のムラ社会の日本は性に奔放だったとか、日本のどこかには姥捨て的な風習があったとかなかったとか、間引きや人買いや村八分は村システムなるものに組み込まれていたとか、そういったことを一般的な予備知識として持った上で見ても、現代からすれば余りにも発想がぶっ飛びすぎて強烈過ぎて、一瞬意味が分からない。。
もう映画中の前提の一つ一つの意味が、映画中に起こるエピソードの一つ一つが最初の一瞬では「??」と訳が分からないのだ。
そして、現代の我々には余りにも強烈に映るそんな前提やエピソードから成り立つ日常がコメディータッチで描かれている。
この『楢山節考』は子供が見れば確実にトラウマ作品になるであろう事は確実な、あらゆる意味で強烈な映画であった
そういった予備知識を持つ日本人である私が見てもこれだけ強烈だったのだから、殆どそういう背景を知らない外国人が見ればどれだけ驚いたのかが良くわかるような気がする。そらカンヌでパムドールに選びたくもなるわ。というわけである。


この映画での物を食べたりエロエロなシーンはなんか目を逸らしたくなるくらいに生々しくグロテスクに感じられ、そして、その後に必ずといって良いほど蛇やら蟷螂やら蛙やらの捕食や交尾のシーンのカットが入ってちょっと興ざめする。
人間も自然の一部だという感覚は日本人にとっては当たり前でも、西洋人にとっては余りなじみが無いといわれているらしいが、逆にこの生々しく分かりやすいカットは日本人よりも西洋人に衝撃的でかつ説明的に捉えられたのではなかろうか。
しかし、改めて見ると、蟷螂のメスが交尾後にオスを食べてしまうという事実はなかなか強烈ですな…
この映画を観ていると映画の中の全てがやたとリアルで実際に本当にあった事のように思えてくるのだが、実際に日本のどこかで姥捨てがシステムとして行われて根付いていた記録はどこにもないらしい。
世の姥捨て伝説は、孝行息子が自分の母を捨てきれずにどこかに匿まっていて、村や社会全体の危機をその捨てられていたはずの姥の知恵が救い、やっぱり姥捨ては間違いだった。お年よりは大切にしよう。てなオチになる教訓的なパターンが多いのらしいのだが、
この映画での「姥捨て」は良いも悪いも無く、ただそれが社会のシステムとして根付いている様を描いている。
この映画は記録映画やドキュメンタリーとして観るよりも、昔の日本のちょっとしたパラレルワールドとして捉えるくらいの方が良いかも知れない。
そして、逆に、実際には心情的にも合理的にも根付かなかったシステムが当たり前の事として前提されている物語であるからこそこれだけの衝撃を受けるのだろうという気がする。
風習なるシステムに従って自分の母親を山に捨て、「姥捨ての日に雪が降るのは縁起が良い」という言い伝えを思い出した孝行息子が、「おっかあ、山へ行く日に雪が降って運がいいなぁ」と母に向かって叫ぶシーンがあるのだが、
もうこの台詞には、もう何がなんだか、何が良いんだか悪いんだか、何が運がいいんだか悪いんだか、全ての価値は相対的でしかないといういろんな物を根本から全否定かつ全肯定するような強烈な知覚に頭がクラクラする。
山深い岩場の谷に捨てられた老婆が、降りしきる雪と白骨の散乱する中で、半ば雪と白骨に埋まって真っ白になりながら手を合わせて念仏を唱え、そこへ真っ黒なカラスたちが群がるシーンは二回ほど裏返って突き抜けたような美しさがある。
この映画で山に捨てられる老婆の役を演じた坂本スミ子は役作りの為に前歯を四本抜いたらしい。
なんというか、その「役者魂」と言ってしまっていいのかどうかすら躊躇われるその行為は、その映画云々を超越して衝撃的であるような気がするのであった。
この1983年版の今村昌平の「楢山節考」を観て、1958年版の木下惠介が監督した同じ「楢山節考」を観たくなったのだが、近所のレンタル屋さんのどこにも置いてない…むむむ…残念

2件のコメント

  • 怖いですえーそらもーはよ見んとあきませんわーww

  • 怖くて未だに観られてません、トラウマになりそうで><

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