『心の羽根』(2003 ベルギー=フランス)/現実と妄想とのかかわり/狂気を微笑みで表現する/埋もれて目立たない良作
映画視聴強化月間と言う事で、ちょっとマイナーっぽいベルギーフランス共同制作の『心の羽根』を観た。
「心の羽根」で検索するとぜんぜん違うドラゴンボールの主題歌がヒットするが当然それとは無関係。
ベルギーの片田舎に若い夫婦と小さな息子の三人家族が静かに仲良く暮らしていた。
生き物が大好きな息子はふとしたはずみに渡り鳥の群れに引かれる様にして蒸発、やがて鳥の集まる沼地で死体として発見される。
最愛の息子の死を認める事ができない母は徐々に静かに狂ってゆき、やがて息子が死んだ沼地に毎日赴いて妄想の中の息子と時間を過ごすようになる。
そして、同じ沼で鳥を眺めてばかりいる内気な青年との関わりあいの中で、母は一年をかけて最愛の息子の死を受け入れることができるようになる。
てなストーリである。
ひたすら静かで坦々とした雰囲気が、ベルギーの田舎町の綺麗な町並みやら自然やらの映像とあいまって無闇にジワジワ来る。
この映画はとても丁寧に大切に描かれていた印象を受けた。
母は息子の死を絶対に認めることが出来なかった。
母にとって息子は死んだのではなく妄想の世界の中へ移動したと受け止められていた。
そして母は息子のいる妄想の世界だけで生きる事になり、それは傍目から見ると狂気以外のなにものでもなかったわけである。
そして、母の狂気は微笑む事によって効果的に表現されていた。
繰り返し繰り返し、狂気を微笑みで表していたがゆえに、最後にはその微笑によって狂気から脱した事をも表す事ができていたのがとても感心した。
子を失った母の狂気にしても、前の「変態島」のようなただ「ウキー」と狂ってるようなものではなく、静かな狂気とも言うべき尖がりっぷりが素晴らしい。
そして、映画の半分以上の時間をかけて、時間が経つごとに徐々にゆっくりと狂気が深まってゆく様もいとをかしである。
母の「妄想の世界は幸せ」と言わんばかりの狂気と孤独が滲み出る静かな微笑みを観ているとゾクゾクする。
息子の葬式で集まった人々に見せる母の微笑み、硬貨を入れると動く馬の乗り物に乗っている妄想の中の息子を見つめながらの微笑み、この二つの微笑はシーン自体は地味なのだが、印象としては強烈であった。
こういった受け入れる事を拒否してしまう程の喪失体験のようなものの克服は、この映画で描かれていたように、それなりの時間が過ぎる事と、その後のちょっとした切欠がとても大事なのだと思う。
時間だけ過ぎてもダメだし、切欠だけでもダメなのであろう。
何とか苦しみと悲しみと妄想と狂気の世界から抜け出た妻はもちろん、その妻が妄想の世界から帰って来るのを信じて、ずっと待ち続け妻を守り続けた夫の忍耐無しではこの結果は無かったのかもしれない。
息子の死を受け入れて日常生活に戻った妻が、最後のシーンで以前に妄想の中の息子を乗せたスーパーの馬の乗り物に通りすがりに硬貨を入れて動かしてやり、その動く馬の乗り物に微笑みながら通り過ぎるシーンがあった。
その微笑で彼女の狂気が癒えた事を理解すると同時に、彼女にとっての息子の喪失を受け入れるのは、現実を捨てて住んでいた息子のいる妄想の世界を消去するのではなく、息子のいる妄想の世界と、息子のいない現実の世界を別の世界として二つ同時に受け入れる事でもあったのではないかと思ったのであった。
そしてその現実と妄想がリンクする地点がその馬の乗り物なのだと。
現実を捨てて非現実の世界の中を本当の世界として生きる人がいる。逆にそういった非現実の中の世界を無と見なして現実のみを生きる人がいる。
そのどちらの人にとっても現実と非現実の世界のリンクは失われ、片側がもう片方を全否定していることになるだろう。
しかし、現実だけ、或いは妄想のどちらか一方だけで生きてゆく事のできない人もまたいるし、そういった人々にとって、現実と非現実との関係のあり方はとても大きな問題になってくる。
妄想が現実を侵し初め、或いは現実が妄想を侵し始めるようになってくると、どちらかの世界はやがて侵食されて無に帰してしまうだろう。
そういった問題意識から言えば、この映画は、母にとっての息子の喪失という主題を通して、現実と妄想の世界のかかわりのようなものを深く考えさせてくれたのであった。
母親を演じた主演のソフィー・ミュズールって人、そしてこの映画自体はなんか妙にマイナーっぽくてぜんぜん知られていないようやけど、もっと評価されて然るべきだと思う。
こういう風に埋もれて目立たない良作がまだまだあるのだろうなぁと思う。
良いですよー
是非ご覧くだされ。
いいですね、こう言う映画。
観たくなりました。