デヴィッド・フィンチャー「ファイト・クラブ 」(1999/米)/妄想クラブへようそろ、めんそーれ妄想クラブ
年末に見た「妄想系」映画の2本目はデヴィッド・フィンチャーの「ファイト・クラブ 」(1999/米)である。
以前私はこの映画を観たはずであるが、Karappo氏とこの映画の話をしていて、そんなストーリーだった事を全く覚えていない事に気づいたのでもう一度観た。
どうやら私はこの「ファイト・クラブ」と「スナッチ」を混ぜて覚えていたようだ。どっちもブラピやしね。
シャッターアイランドがリアル路線シリアス系な妄想系だったのに引き換え、このファイト・クラブはマッチョなバカ映画の方向性に舵を切ったエンタメ妄想系であった。
とはいっても、最初からそういう方向性を狙って作ったのではなく、真剣に真面目に語れないほどのシリアスでデリケートな苦悩やルサンチマンやコンプレックスを語る事で裏返ってマッチョなバカ映画の方向性に見えるということだ。
一見バカ映画に見えるが、その病み方と苦悩の根は実は意外に深い。そしてその根の病み具合は非現実的な妄想を現実としてする意外に解消される方法が無いというのが救いの無い所である。
ネットでこの映画を評して「幸せな人が観ても理解不能、不幸な人が観ても決して幸せにはなれない」と書いてあるのを読んだがまさにその通りであると思った。
この映画のような妄想を現実に持ち出し、その妄想を現実で突き詰めれば突き詰めるほど「自分が滅ぼされるか、自分を否定する世界を滅ぼすか」の勝ち目の無い二者択一に追い込まれていく事になる。
そしてなによりも、この映画全体が一種の妄想の典型的なパターンでもある。
サブカルストリート系世捨て人の方向性に行くのかと思いながら観ていると、いつの間にか反社会武装勢力的な方向に流れてゆき、「そっちの方向に進んでいくんかい!」と驚きながら楽しく観ていたのだが、突拍子も無いようにも思える物語の展開がよく考えれば実に妄想として筋道が立っている。
突拍子が無いようで、バカ映画のようで、実はとても良く練り上げられたリアルでシリアスな映画であった。
シャッターアイランドが「妄想の世界に逃げ込まないと生きてゆけない人」を対象として逐一分析する印象の映画だったのに引き換え、
このファイト・クラブは同じような「妄想の世界に逃げ込まないと生きてゆけない人」本人の目を通して口を通して語られている映画であるように感じた。
何よりも、傷つけあう事、痛めつける事、破壊する事で自分や他人や世界を理解しようとする方法論しか取れなくなった追い詰められ方が、妙にリアルであった。
それに女性が一人しか出てこないところ、そしてその女性が突然現れて全てをひっくり返し、また突然現れて全てを統合する存在である所も良かった。
何度も繰り返すが、変な当事者性のあるリアルさを感じる映画であった。
この映画の中の地下で行われている「ファイト・クラブ」はある意味では「妄想クラブ」でもあった。
前のシャッターアイランドの感想で
妄想は害の無いように「フヒヒヒ…」とこっそりしましょう。
そしてその「フヒヒヒ…」をリアルな世界に持ち出してはいけません。
と書いた。
この映画でもブラピは
ファイトクラブの掟その一、ファイトクラブの事を誰にも喋るな。
ファイトクラブの掟その二、ファイトクラブの事を絶対に誰にも喋るな。
と力説していた。
つまり、
妄想クラブの事を誰にも喋るな。
妄想クラブの事を絶対に誰にも喋るな。
の二つの掟は絶対に必要だという訳なのである。
人によって捉え方が変わるだけでなく、同じ人でも見た時期によって捉え方が変わるのは、
逆にその捉え方によってその人のその時期の問題意識のようなものが垣間見えるようですねぇ。
ファイトクラブが「妄想系」と捉えられていたのは面白いですね。
やっぱり人によって重要な部分の捉え方の角度が変わってくると言うのは、大変興味深いことです。
僕には、強さを求める心の象徴としての二重人格、と、メディテーションで心の洞窟に入っていきパワーアニマルに出会う描写の二度目でマーラが出て来た場面が印象的でした。