ヴェルナー・ヘルツォーク 「カスパー・ハウザーの謎」 (1974/独)

amazon ASIN-B00005NO7I小さいころから背が立たないほどの狭さの陽も射さない地下牢に長年閉じ込められていた青年が、人間的な感情も欲望も言葉も無い状態でひとつの言葉と1つの文字だけを教えられてその地下牢から外に出される。
外界へ出た彼は何にも一切興味を持たない何をされてもされるがままの全く意思の無い木偶のようであったけど、徐々に感情を発達させて言葉を覚えてゆく。彼の周りの人たちは彼を見世物にしたり社交界に引っ張り出したりするが、彼は徐々に人間らしくなってゆく。というもの。
映画を観終わった後に調べて初めて知ったことやけど、この地下牢に育った「カスパー・ハウザー」なる人物の話はヘルツォークの創作ではなく、日本ではマイナーなやけどヨーロッパでは中々メジャーな実話であるらしい。


この映画はヴェルナー・ヘルツォークが「アギーレ/神の怒り」の次に撮った作品であるけど、「アギーレ/神の怒り」がとても強い我と欲望で突き進む狂気に囚われた男を描いていたのに対して、この映画は全く欲望と意思だけでなく我の概念すら無かった男が我を得ることで世界と自分のギャップに苦しんで悩む話であった。
たしかに謀反を起こしてエルドラド征服を目指すコンキスタドールと一人の子供時代を地下牢で過ごしたナイーブ過ぎる青年の話、と考えてみれば両極端な話なのやけど、どちらも人間としてなにかしらの極端な形の1つであることは間違いないだろう。
余りにも極端で特殊で個別的な例を挙げることで逆に何かしらの一般性や普遍を表すような帰納的な手法は私の好むところである。とか思ったけど、まぁ大抵の映画はそうやね。
人間としての証である「感情」や「知」が人間にとって肯定されるべきことであるというのはどちらかというと無条件的に認められる事のようになっているけど、楽しみや喜びの原動力であるはずの「感情」や「知」があるがゆえに、逆に苦しみと悩みも生まれるという事は大抵の人が経験的に納得することでもあるだろう。「感情」や「知」あるいはその両方を暴走させて破滅や不幸への道を歩む人は多い。
この映画で描かれる、地下牢を出た彼が人間として成長してゆくごとに楽しみや喜びを得るのではなく、苦しみと悩みこそを深めてゆく様がなんとも辛かった。
なんとも妙な余韻の残る中々にヘビーな映画であった。

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