映画:「ピアニスト」 ミヒャエル・ハネケ/ フランス風エロエロジュテーム映画暗黒系

amazon ASIN-B0000D8RO8ミヒャエル・ハネケの2001年に公開されたフランス映画である「ピアニスト」を観た。
この監督は「セブンスコンチネント」を観てから大好きになった監督である。この映画は今までの映画とは違い、なんとなくそれなりにメジャー路線だったような気がする。
過保護で過干渉な母の下で、全てを犠牲にしてコンサートピアニストを目指すも、挫折してウィーンの音楽院のピアノ科の教授を細々と務める、シューベルトとシューマンが好きな中年女性の主人公に、理系で恰好良くてピアノも上手い若者が、正々堂々とピアノ科を受験して合格し、真正面から熱烈に言寄る。
そんな彼の熱意に、女である事を捨てたようにピアノ一筋で、隠された秘密を抱えて生きて来た主人公の心は揺らぎ始める。
って書くといかにもありがちな、おフランスな映画のように聞こえるし、実際パッケージもそれっぽい。
しかし、さすがはミヒャエル・ハネケ、この映画が「ラブロマンス」の棚ではなく「ミニシアター」にあるわけである。


次々と繰り出される常人には中々理解しにくいピアノ科教授の変態行為の数々は見事であった。理解しようと言う望みを度外してして観れば、彼女の行為は滑稽にしか見えない。そしてなによりその滑稽さこそが痛ましく哀しい。
経験の不足によって、どんどんエスカレートして行く知識の暴走は、結局、いざ実際に経験した行為と整合性が取れずに破綻する。
「もてない奴に限ってやたらと理想が高い」とか「経験が乏しい奴に限ってテクニカルで極端に走る」ってのがあるけど、まさにそれを更に極端にしたようなものである。
一人でも変態、彼氏が出来ても変態、母親にも変態、もはや変態でしか自己を表現出来ない域にまで来て後戻り出来なくなった彼女の悲惨さはちょっとありえん。
自分自身でそんな自分が理解出来ている所が余計に救いが無い。シューマンに自己を投影するもそれをちゃんと解消する方法を知らない姿が痛ましい。
おぉっ?とうとう二人の愛が成就するか?と思えば、「えぇーっ?」て言うくらいにエグく破綻する様はもう見事である。
主人公は変態であるからこそ悲しいし、主人公に言い寄る男はノーマルであるからこそ悲しい。お互いを理解しようとしても理解できず、理解されようとして理解されない、このあまりにフランス文学的に古典的な、フランス風いたちごっこは余りに哀れである。美しさの欠片も無い。
ここまで悲惨になるともう笑うしか無いのやけど、「Je t’aime」がここ々までエグく滑稽に空しく響くのは空恐ろしい。
言ってる事とやっている事だけをとれば「フランス風エロエロジュテーム映画(あるいは小説)」やねんけど、実際は全く逆というか、とことんまでそういう映画のパロディーのように馬鹿にしているとまで思えてくる。
実際は「フランス風エロエロジュテーム映画暗黒系」と言ったところか。
ハネケは結構ドキュメンタリーであるとか、ノンフィクションの題材を映画化する事が多い。そして自分の映画は娯楽では無いし、その映画に嫌悪を感じるのは何故かを考えて欲しいと言っている。そう言う事からも普通の映画ではない物を目指しているのは理解できる。
この監督はどの映画を観ても、やっている事自体をとって見れば全く理解できないのやけど、何でそう言う事をする事になったかという「気分」に関してはとても良くリアリティーを持って理解できるるように思う。あまりにも突飛で嫌悪感を抱かせる癖にやたらとリアル。もしかしたら自分もああなるかも。というはあまり気分の良い物では無い。
誰しも程度と方向の差はあれ、自分の変態性やとか、後戻りの出来なさやとか、相互理解の不整合に悩んだりするものである。
主人公が自分の生徒に向かって「ピアノの情熱はその程度のものか?」って言っていたような気がするけど、「お前こそシューベルトとピアノに対する情熱はその程度のものか?暴走の歯止めに屁のツッパリにもなってないピアノなんか止めちまえ!」と言いたくなった。
自分の良くわからない欲望と狂気の持つエネルギーの扱い方がわからず、その矛先を変えて、変換してしまう術を知らない人の悲惨さと言うのが痛いほど見えた映画であった。

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