黒澤明 「赤ひげ」(1965/日)
黒澤明の「赤ひげ」を観た。
原作は山本周五郎の『赤ひげ診療譚』で、江戸の貧民たちの診療所に配属された若いエリート医師が、「赤ひげ」なる所長や様々な人間たちとのかかわりの中で成長してゆく様と、貧民たちの様々なエピソードが語られる。というもの。
デヴィッド・リンチの映画を観た後のこの映画を観るとあまりにまとも過ぎてくらくらしてくる。
「どん底」の貧乏長屋のように「貧乏」が病の直接的な原因になり、また「貧乏」自体が病ともいえるような状況、そして何よりもそこから生まれる「心の病」の描写というか演出いうか演技がなんともたまらん。
三時間過ぎと途中休憩が入るほど長いけど、最後まで目を離すことなく観てしまった。
黒澤明の映画は娯楽としての方向性を突き詰めたがゆえにすごいと言われるのやと思うけど、この「赤ひげ」もヒューマニズムの方向性で娯楽を目指したが故に良い映画となったのであろう。
監督が黒澤明というだけでなく、三船敏郎がいてこその映画である事も間違いない。それから子役の「どですかでん」の六ちゃんも中々いい味出していた。
ちなみにこの映画は黒澤明の最後の白黒、最後の三船敏郎の出演作でもあるらしい。
この映画の中の世界では結局のところ病気になるのも病気が治らないのもすべて貧乏から来ているわけで、病気から完全に治癒するには貧乏から脱却すること以外に無いように見える。
医者はある程度の病気の治療は出来るけど、貧乏を治療することは出来ないわけで、根本問題は医学とか薬学の問題ではなく、貧困や富の配分の問題になるわけである。
根本的な問題は貧困やけど、医者である「赤ひげ」はそこに手をつける事は出来ず、自分に出来る最大の力である医術を振るって表面上の問題である疾病に対峙するしかないわけである。当然根本の部分には何の手も入っていないので、彼自身も言うように、やってもやっても殆ど意味が無いし、彼はそれをわかっていながらもやらざるを得ない。
個人の世界や社会に対する関わりというのはこのようなものにしか成り得ないのではないか。世界や社会の根本の問題に直接的に関わることが出来なくても、現象としての部分に自身の仕事や特殊性を生かして関わることで世界の問題に関わっていることになるのではないかと。
例えばちょっとしたWebDBシステムを作ってみたり、壊れたパソコンを直してみたり、スピノザを研究してみたり、仏法を説いてみたり、お香を売ってみたり、図書館で本の相談にのってみたりといったことは直接的に社会や世界の根本問題に関わることは無くても、現象としての部分に関わることでその根本問題に繋がっているのだと。
仕事ってのはこういう風であるといいなと思った。